Twitter and the Monkey Man Winter, Spring & Summer 2017
ツイート自体が非常に少ないので、取り上げられるものも殆どありませんでした。昨年1年間を丸ごとまとめてしまっても良いくらいのツイート数減少。
眼科の方の担当医がまた変わっていた。しかも恐らく今までで最年少だろう。時代は変わる。昨日は横須賀線の遅れが千葉県北東部にまで大きく影響を与えていて大変難儀した。ただでさえ本数が少ないのに、大幅に遅れが出るのは辛い。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) January 14, 2017
おくすり手帳を見たら、1年ごとに医者が変わっている。それだけ人がいないのだろう。小中学生の頃、担当医が変わるだけで結構ストレスがあったんだけどな(カルテだけでは伝わらない事もあるので)。もはやそれが当たり前の事になってしまった。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) January 14, 2017
これだけ変化が激しいと、もはやここに通い続ける理由も無いような気もする。だが点数稼ぎしようとするこっちの病院もあまり好みではないので、これからも通い続けるつもりでいる。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) January 14, 2017
乗換駅で地震があった日でした。電車の遅延はそれとは関係がなかったと思います。
目の症状が特殊なので、担当の医師が変われば煩雑な事態は避けられません。それが最も熱心に通院していた(させられていた)小学~中学生時ならば、それをストレスに感じるのは避けようが無い事実です。
しかしこの日を含め、2017年はもう1度この病院で診察を受けましたが、昨今の例にしては珍しく担当医師が変わっていませんでした。病院の公式サイトを見てもその方が載っており、久々に(10年ぶりくらい)同じ医師の下で継続した診察を受けられるのではないかと期待しています。
丁寧でありながらくだけた感じの話しやすい女性医師の方で、個人的には好感の持てるお医者様です。今夏の診察も、彼女が引き続き勤務してくれていればストレスも軽減出来るはず。
前回のMadness日本公演の事を思い出すと、ライブ自体の素晴らしさと同時に、過酷だった当時の勤務形態と暑さの事が脳裏に蘇る。楽しいだけの記憶でないのが少し残念なところ。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) April 2, 2017
11年前といえば、マッドネス公演の約2ヶ月前に巻のサプライズ代表選出という事件があった。当日は勤務中だったが、あまりの嬉しさで休憩時間中に巻の応援歌(エリーゼのために)を弾き語り、更にギターを重ねてその音声ファイルを巻ファンの熊本の友人に送った。もう今ではそんな行動力は無い。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) April 2, 2017
ここでは2017年のMadness来日公演を控え、2006年次の公演を振り返っています。
下ツイートの逸話、旧ブログに書いた記憶もありますが、記事検索しても見つからないのでどうやら初披露だったようですね。
昔とあるサッカーサイトにて知り合った人々の中に、巻が熊本出身だからとジェフサポになってくれた方がいた。今頃、郷土の英雄の帰還に喜んでおられるのだろうか。長らく連絡を取っていないが、久々にお話してみたいものだ
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) January 15, 2014
フクアリ10周年か。それこそあの頃は2人の祖父が同時に倒れ、何度か緊急の呼び出しもされていたので、オープニング・マッチの最中も病院からの連絡があるかどうかを常に気にしながらの観戦だった。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) August 13, 2015
試合中に地震があったと熊本在住のジェフサポ氏(巻の大ファン)からメールがあったが、私がそれを受信したのはスタジアムを後にしてからだった。今より電波状況が悪かったのだろうか。彼とは翌年のホーム浦和戦を共に観戦し大いに盛り上がったが、それ以降一度も連絡を取っていない。元気だろうか。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) August 13, 2015
以前ツイートもした事のあるN氏との思い出です。彼とは2006年ホーム浦和戦を共に観戦し(巻のゴール時の喜び方ときたら半端ではなかった)、その後秋葉原を徘徊(当時、ツイート内で触れているサッカーサイトにて話題になっていたFCバルセロナを中心としたグッズショップ“ピチーチ”来訪のため)し、食事をして彼とは別れたのですが、その時が直接お会いした最後の機会となりました。また是非お会いしたいです。現在はロアッソのサポーターに転身されたのでしょうか。
とある動物を住宅街で飼育する事で、近隣住民と常に摩擦を起こしてきた家庭。ここ十数年はその件に関しては落ち着いていたようだが、新たに飼育環境を整えて再開したという話。孤立を恐れないのか、それとも周辺の人間を軽侮しているのか…。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) June 20, 2017
恐らく後者でしょうね。誰か本気で裁判でも起こせばいいのにと思っています。
原爆関連の行事で、何故か海の家に泊まった事がある。波の音が怖くて眠れなかった記憶しかない。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) August 5, 2017
すいか割りで見事成功し、商品をもらった事も覚えています。プラスチックのキャリングバッグで、実家のカセットテープ入れ→ミニ四駆関連ケース→実家のカセットテープ入れと変遷を辿り、現在は我が部屋にて引き続きカセットテープ(かつてのバンド練習を録音したもの)収納ボックスとして任を続けています。
奇跡の入荷!エレックレコードの輸送ダンボール付!【朗読中古レコード】徳川夢声/朗読 吉川英治/原作『宮本武蔵』全100枚組!!!!! じっくりアナログで聴くべし!: https://t.co/iBxJhvb0az #du入荷 #宮本武蔵 #吉川英治 pic.twitter.com/fc5YFzBuqA
— ディスクユニオン神保町店 (@diskunion_dkg) October 22, 2016
これがエレックの経営を傾かせるきっかけになった伝説のブツか。1年近く前のツイートだけど、まだ残ってるのかな。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) September 19, 2017
このツイートを見てから二度ほどこの店舗を訪れていますが、いつも確認を忘れてしまいますね。都心のユニオンでは珍しくクラシック中心のラインナップなので、あまり数の多くないロック系を適当に見たら出てしまう事が多いせいでしょう。
ハジアル
今までも繰り返し取り上げてきた“ハジレコ”的な企画。
思えば、“ハジビー”(初めて買ったThe Beatles作品)や“ハジニュー”(初めてリアルタイムで接したミュージシャン毎のニューアルバム)は取り上げてきたが、「初めて買ったミュージシャン毎の作品」というのはまだ書いていなかった。
とはいえ、このブログではTM Network, Pet Shop Boys, Oasisなどの該当作品は繰り返し紹介しているので、それらに関しては触れない。まだブログで書いていないもの、もしくは旧ブログにて過去に書いたものを振り返る形でまとめておこうと思う。ネタ切れ企画もいいところだが、個人的記録のためなので読み飛ばして頂ければ幸い。
以下、続きから。
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これ(おわり)なんですか
長い歴史を持つラジオ番組から、急な別れの言葉。
昨日の #ビートルズから始まる。 は残りの20分くらいだけを聴いたが、エンディングトークにてDJスネークマンの「今日でこの番組は終わりますが…」と別れの挨拶。突然の告知に大いに狼狽していたが、ツイート検索によれば既に先週予告されていたらしい。 #bayfm
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2018年3月26日
DJ小林克也『ビートルズから始まる。』 が、19年の歴史に幕を閉じました。ツイート通り私にとっては突然の事で、全く予期せぬ発表。当日一緒に聴いていた親も大いに困惑しており、肝心の小林氏の声が聞き取れない事態に。
新番組の開始日が4月1日とされていたので、もしかするとジョークなのではないかという疑念がありましたが、近年の企業や官公庁のような悪ノリな嘘ではなく、本当に番組は終了してしまいました。
以下、続きから。
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All through the day, all through the night, all through my life...
去る3月上旬、会期終了が迫る中で『ジョージ・ハリスン アイ・ミー・マイン展』を観るため渋谷ヒカリエを訪れた。
ジョージの著書である自伝及び歌詞をまとめた豪華本『I Me Mine』の増補版発売を記念し、開催されたものだ。
ちなみに、ヒカリエを訪れたのは2度目であり、前回はThe Beatlesのシアトリカルなライヴ・ショーであった『Let it Be』を観たのであった。
KOSE presents LET IT BE ~レット・イット・ビー~ | ラインナップ | 東急シアターオーブ|TOKYU THEATRE Orb
一応、両方ともThe Beatles絡みという事になる。
近年観た展覧会は美術館を丸々使ってのものばかりだったので、会場では少し迷ってしまった。
1フロアの中にギャラリーが複数あり、そのうちの1つを使って今回のジョージ展は開催されていた。こういうスタイルの会場は初めてだが、この控えめな感じも実にジョージらしい。
前述通り会場はさほど広くなく、入場してすぐの部屋に販売用の写真(何故かポールとリンゴだけが写ったものも)や、撮影可能な写真と「I Me Mine」の歌詞がディスプレイされていた。
すぐ隣の部屋に、「Taxman」から「Brainwashed」までの22曲のジョージの直筆歌詞カード、プライヴェートな家族写真、メモラビリアなどが展示されている。
写真はAnthology等でよく見るものや、初めて見るものが半々くらい。特に1980年代以降のものはメディアへの登場回数はあまり多くないので、新鮮な印象を受けた。
ハワイやオーストラリアでの休暇中とおぼしき写真では、どうしてもスコセッシ作品『Living in the Material World』の終盤を思い出し、感慨に耽ってしまう。
展示物の目玉といえば、やはりジョージがルーフトップ・ライヴで着た黒のフェイクファーのコートだろう。
The Beatles - Don't Let Me Down
あの伝説的なライヴでジョージが着た服が、まさに今目の前にある。圧倒的な説得力と迫力。オールローズのテレキャスを弾きながら、軽快にリズムを取っていた「Get Back」の演奏シーンが脳内に蘇る(動画は「Don't Let Me Down」だが)。
冬のロンドン、ライヴ当日の屋上のあまりの寒さに耐えかね、ジョージ・ジョン・リンゴはそれぞれの婦人達からアウターを借りた(ポールは寒さに強いのかジャケットのみ)、という情報をどこかで見たが、そうするとこのフェイクファー・コートは元々パティの持ち物だという事なのだろうか。
間近で観るコートで一番印象に残ったのは、Mary Quantのロゴが入ったタグが想像以上に自己主張していた点である。あれほどブランド名がはっきり書かれているとは思わなかった。
私が入ったばかりの時はなかなかの人だかりで、自分のペースで歌詞カードを鑑賞するのが難しいくらい。
しばらく歌詞カードから離れて写真やコートを何度も見直したりしているうちに、フロア内に流れるBGMが展示されている歌詞カードと同じ曲を年代順に流しているのだと気付く。
せっかく大好きなジョージの名曲の数々が流れているのに、これを楽しまない手はない。BGMと歌詞カードを同時に堪能する。何しろジョージの歌声を聴きながら、歌詞を作者本人の直筆で脳内にインプットする事が出来るのだ。何とも贅沢な時間ではないか。
歌詞を書いている時のジョージの心境にまで想いを馳せる事は出来なかったが、私なりの鑑賞法でこのイベントを心行くまで楽しんだ。
唯一、会場内で音源が流れていない歌詞があった。
ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターに向けて書いた幻の楽曲が見つかる https://t.co/txLBPUFq2W
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2017年6月20日
仲が良いいいのも勿論だけど,やっぱりプレイヤーとして信頼していたんだなと。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2017年6月20日
その曲こそまさに、先日発表があった幻の未発表曲「Hey Ringo」であった。このような形で日の目を見せるとは、何とも心憎い。
内容は、ジョージとリンゴがお互いを褒めあうかわいらしい内容。だが、これをジョージが1人で書いていると思うと微笑ましい。オリヴィアが「本当にスウィートなのよ」と語るのも、さもありなん。
歌詞のラスト、「死ぬまで君と一緒にギターを弾くよ」と言う熱烈なジョージに対し、「嬉しいね、Mr.G...でも倒れるときはあっちに倒れてくれよ」とジョークで返すリンゴが本人以上に本人らしく、感動的な詞でもしっかりオチを付けるのが実にジョージ(とリンゴ)だな、と思わずにやけてしまった。
この歌詞を観て思い出したのは、またしても映画『Living in the Material World』での1シーン。2人の最期の面会時にジョージが飛ばしたジョーク、そしてそれを振り返るリンゴの姿。
後からプロモーションの文を読んだところ、ここに展示されていた歌詞カードはあくまで「忠実に復刻された原寸大の」レプリカらしい。
だが、ジョージに関するイベント自体が非常に貴重だし、こういった機会がある事に心から感謝しなければならない。私は感謝の気持ちしか持っていないし、日本での開催を決定してくれた関係者の尽力には頭が下がる。不満などあろうはずがない。
そして、願わくば再びこういった機会があると幸いである。
電位戦隊デンシマン
先日帰省した際(度々帰っているのだが)、かつて近所にいた人々の話を両親とした。下総の訛りが強かった八百屋のお婆さん、愛人に船を買わせた居酒屋の女店主など。
その中で、とある老婆の話になった。母が言った「おとなしくて物静かなお婆さん」は、我が家で“電子”と呼ばれていた機器を借りるために、たまに来訪していたらしい。電気代としていつも50円を置いていったという、何やら1960年代辺りのようなエピソードも話してくれたが、私は全く記憶に無い。両親が共働きのため、祖父母と接する事が非常に多かった私。故に、その人とも言葉を交わした事くらいはあるのだろうが、今となっては何も覚えていないのである。
問題は、我が両親ですらその人物が何者かを忘れている事だ。私の地元の出身地区は人口が多い(我が所属自治体の中では)割に地域活動に(無駄に)熱心で、地区の人間と顔を合わせる機会が多い。
よって、基本的には近所の人間とは殆ど顔見知りなのだが、そんな地区において両親が覚えていない人物となるとかなりのレアケースという事になる。他地区の人という事も考えられるが、無駄に広い市町村なので自転車等でないと来るのは難しいだろう。その可能性は薄い気がする。
そして時は流れた。その人物の事を確認する手段はほぼ存在しないと言っていい。唯一にして最大の手掛かりである我が祖父母が、この世を去って久しいからだ。
語る人がいなくなれば、記憶も薄れていってしまう。その人は確かに存在し、恐らく私も接した事があるはずなのに、もうそれが誰かを調べる術はない。何とももどかしく、妙な気分であった。
さて、“電子”という言葉を先程使った。これはあくまで我が家族内での通称で、本来は「電位治療器」という呼称らしい。詳細はリンク先で確認されたい。
電位治療器 - Wikipedia
これが何故我が家にあったかというと、祖父母が私のために購入したためである。私の生まれつきの右目の弱視に振り回されていたのは、当然ながら両親だけではなかった。特に祖母は、私の右目がおかしい事に最初に気付き、地元の眼科に連れて行ったくらいだから、特に心を痛めていたものと思われる。
当時の我が街はまだ活気があり、商店街にスペースが設置され、そこで度々セールスマンが実演販売を行っていた(らしい。私自身は見た事がない)。恐らく、そこで「お孫さんの体にもきっと良い影響を与えるはずですよ!」などとセールストークに上手く丸め込まれてしまったのであろう。
決して安くはない、むしろ高額な機器。恐らく購入にあたり、祖母と父の間で口論もあったと予想される。だが、様々な病院へ私を連れ歩いた両親(愉快でない思いも多くしたらしい)同様、祖父母も必死だったのだろう。私はその行為を「無駄な買い物だった」等と後付けで評論めいた事を言う資格はないし、そんなつもりもない。ただ感謝である。
当時主に通った3つの医者から、それぞれに日々のノルマを課されていた私。
玄米食・下校後のマラソン(ジョギング程度の速度や距離ではないのでこう書く)は木更津の東洋医学の医師から。
マラソン後の電熱器による治療と視力回復マシーンを使ったトレーニングは千葉の視力回復センターから。
寝る前の視力測定は近隣の総合病院から(結果が悪いと叱責を受けるため、個人的にはここが一番憂鬱だった)。
この中に、“電子”が加わる事となった。正直、これに関してはそこまで熱心には行っていなかったが…。
だが、こういった過酷なメニューも、中学校に進学した際に全て中断してしまった。担当医の廃業や入れ換えが行われたタイミングに、忙しくなった学校生活が加わったのが原因だろうが、大きな理由は私も両親も前述のトレーニングめいたものに全く効果を感じていなかった事ではないかと思う。
ひとまず、両親や祖父母が付きっ切りで私の右目を心配をする時代は、ここで終わった。
だが、両親にも祖父母にもここまで手を掛けて育ててもらったにも関わらず、現状では恩返しどころか親不孝道をまっしぐらに走っている最中。さすがにこのままではまずい、と思う気持ちは多少なりともある 。
少なくとも、自分が自分の未来を投げ出すような事だけは避けたいと思う。「お前にはNo future!」と私の事をよく知らないジョニー・ロットンめいた者達に叫ばれようとも、私はこのまま力尽きるわけにはいかないのである。私は、まだまだ何も諦めたつもりではない。
ちなみに、私の目の治療は高校三年の夏に訪れた千葉の名医の一言によって、一応の結末を迎える事となった。
「あなたの眼球は生まれつき特殊な形状なので、もう治りません。これからは、維持していく事を考えましょう」
自分でも薄々感付いていただけに、粛々とその事実を受け入れた事を思い出す。それは同行していた両親も同じだっただろう(私よりはショックを受けただろうが)。祖父母にその事を伝えたかどうかは、もう覚えていない。
Tetsuya
何かを好きになり、本腰を入れて追い掛ける。そこに至るまでには、ファースト・インプレッションだけでなくもう一押し、二押しとなるファクターが必要になります。少なくとも、私にとっては。
例えばサッカー(ジェフユナイテッド市原)、Jリーグ初年度開幕直後の連勝やリティの華麗なプレー。手塚治虫作品、2冊目に購入した短編集『はるかなる星』の粒揃いの出来と幼少時に読んだ『どろろ』の記憶が蘇った事。スターウォーズ、音楽の素晴らしさや日本の時代映画のオマージュに溢れている事…などがそれにあたります。
そして、TM Networkを深く愛するきっかけの一押し、二押しとなったのは、小学館の小学生雑誌による特集記事、更に中心人物の名前が自分と同じ「てつや」だった事でした。
TMとの出会いが、自主的に聴く音楽との出会いであり、楽器を持つきっかけとなった。更には、音楽という自己表現の手段を得た事によって、保守的な田舎町において確かなアイデンティティを自分の中に持つ事が出来た。周囲に追随しミソッカス扱いされるだけのワン・オブ・ザムから抜け出す事にも成功。
以上に関しては何度もこのブログに書いてきましたが、そういった自己のブレークスルーのきっかけをくれたのがTMでした。感謝してもしきれません。
その翌年The Beatlesと出逢い、ギター、バンド、ソングライティングといった具体的な音楽活動に開眼していく事となりますが、それはまた別の話。
だからどんな事があろうとも、小室哲哉氏は私に大きな転機をくれた重要な人物です。勿論、本当は「全てはビートルズから始まる」と格好良く過去を改竄したいところですが、事実を偽る事は出来ません。
TMN終了後、彼の取り組み始めたプロデュース・ワークへの大きな失望、及び狂騒に呆れ果て、私は一転して彼を攻撃するようになりました。この期間に関しての評価は、未だに変わっていません。
しかしTMを再始動させ、一度は大きな過ちを犯しつつもTM30周年に向け意欲的な活動を見せていたここ数年の小室氏を、私は再びフラットな視線で見る事が出来るようになりました。
現時点でのTM Network最新作『Quit30』の出来が私の好みと一致しているかどうかはともかく(EDMはちょっと…)、シングル「I am」「Loud」の出来は、本当に久し振りにTMの新作として諸手を上げて歓迎出来るものだったと思います。
私は未だにTMのファン(Fanks)ではありますが、少なくとも現在は彼個人のファンでも何でもありません。よって、当たり障りのない殊勝なコメントも出来ませんし、今回の件に関して全面的に擁護しようとも思っていません。
www.daily.co.jp 個人的には、宇都宮・木根両氏に何の相談もなくこの決定をした事が、大いに引っ掛かっています。よって、具体的に言及する事は避けたいと思います。
しかし、彼の影響を大きく受けた人間の一人である事は疑いようのない事実です。それを否定する気は毛頭ありませんし、今後も自分の中の大切な思い出として胸に秘めていきたいと思います。
小室氏が今後どのような判断をされ、どのような人生を歩まれるかは私にはわかりませんが、この機会に改めて感謝しておきたいと思い、この記事を書いた次第です。
今まで、本当にありがとうございました。今は、ゆっくりお休みください。