P.Wilsonic Dream ~Road to "The Good-Bye"~ Vol.2
【9/2(月)開催決定!!】
— ROCK CAFE LOFT|ロックカフェロフト (@ROCKCAFELOFT) 2019年8月16日
THE GOOD-BYE 『SPECIAL THANX』発売記念イベント
《THE GOOD-BYE『SPECIAL THANX』発売記念「川原伸司、THE GOOD-BYE SOUNDのルーツを語る、AND YOU、、、」》
★OPEN 19:00 / START 19:30
★前売り¥1500(要1オーダー¥500以上)
詳しくはこちら!→https://t.co/q6gW06Iq4K pic.twitter.com/6UOu5IAqtn
前半はこちら。
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Around the Dohkan
真夏に行った場所は半袖で過ごせるうちに記事に…と、無理矢理まとめてみる。
今夏、ちょっとした巡り合わせから史跡を訪ね、興味を持った太田道灌。彼がその武勇を知らしめた“江古田・沼袋原の戦い”は戦跡が訪れやすい場所にある事や、英雄には付き物の伝説がいくつかある事を知り、可能な範囲で足を運んでみる事にしました。2ヶ所とも別の日に来訪。
殆ど予備知識無しで行ってきたので、主に写真だけの紹介です。「金の鞍」「照姫」伝説が残るという石神井公園(三宝寺池)も訪れたのですが、今回記事を書くにああたりデータを参照していたら、かなり重要なポイントを見落としていた事に気付きました。調査不足が災いした形です。次の機会がいつになるかわかりませんが(今年中は難しそう…)、再訪し次第記事にしたいと思います。
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Dear P.Wilson ~Road to "The Good-Bye"~ Vol.1
The Good-Bye30年ぶりの新作発表、及び昨年から続く35周年アニバーサリーに伴うライヴ開催。以前から何とかライヴを生で観たいと思ってはいたものの、今回もそれは叶わず。
【9/2(月)開催決定!!】
— ROCK CAFE LOFT|ロックカフェロフト (@ROCKCAFELOFT) 2019年8月16日
THE GOOD-BYE 『SPECIAL THANX』発売記念イベント
《THE GOOD-BYE『SPECIAL THANX』発売記念「川原伸司、THE GOOD-BYE SOUNDのルーツを語る、AND YOU、、、」》
★OPEN 19:00 / START 19:30
★前売り¥1500(要1オーダー¥500以上)
詳しくはこちら!→https://t.co/q6gW06Iq4K pic.twitter.com/6UOu5IAqtn
ならばと、これまたツイート検索で知ったこれに行こうと決意。スケジュールを精査する事なく、半ば衝動的に予約を入れてしまった。少しでもこの記念すべき時に何かイベントに加わりたかったし、The Good-Byeのブレーンでありながらナイアガラにも深く関わった超重要人物、川原伸司氏の話を目の前で聞きたいと思ったのだ。
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時代遅れの城があったら殴って壊す。近代的な城がなければこの手で造る。
夏の始めに行った場所は、出来るだけ夏のうちに記事にしておきたい。
本田忠勝が関東に入城した際、最初に拠点としたのが根古屋城。元々は武田氏が里見氏の来襲に備えるため、重要な防御拠点として築城されたとされています。
そもそも忠勝がこの地に移封されたのも、里見氏の脅威に対する抑えとするための意図があったから。譜代大名として家康からの絶対的な信頼が窺える人事ですが、それだけ里見氏というのはこの地を納める歴代武将にとっては頭の痛い存在だったのでしょう。やるじゃないか、里見氏。
この城址は、千葉テレビで紹介される度に気になっていました。広い高台から眺める大多喜城の天守や周囲の風景は、さぞ気分が良いものだろうと思い、いつか自分の足で訪れてみたいと思っていたのです。今夏は機会があり、遅い梅雨明けの暑い盛りに徒歩で目的地を目指しました。
道を間違え、体力を消耗しながら到着。水田の中にある高台の端に、それらしきものがあります。
周囲は民家に囲まれており、高校野球中継の音が大きめに漏れ聞こえてきます。しかもこの史跡の前には、堂々と路上駐車されている始末。不恰好になるため、路上の車の影が入らないように工夫する必要性がありました。
このスペース自体が私有地なのかもしれませんが、せっかくの歴史的な場所がこんなぞんざいな扱いで大丈夫なのか…。
期待に胸を高鳴らせ、階段を上った先に待っていた風景は…。
こちらの勝手な想像とは大きく異なる、小さな敷地。しかも雑草が処理されているのかいないのか、爬虫類が跋扈する夏場に入るには少々勇気のいる状態。
千葉テレビで見た風景は何だったのか…と困惑しつつ石碑を見る。
どうやら、根古屋城はここで間違いないようです。
自分の中で想像だけが勝手に膨張していたようで、実際の城址は非常に小規模なものでした。
とはいえ、申し訳程度に置いてあるベンチから大多喜城を臨む事も可能です。
忠勝は入場した際、ここが近代戦には向かず、拠点としては貧弱であると判断して新たに山の上に築城。これが大多喜城となります。この時点で根古屋城はお役御免となり、廃城となったとの事。
中世の作りで当然天守や堀もなく、建物としても小さいものだったのではないでしょうか。それは周辺の土地の広さを見ても、容易に当時からの状況がわかります。
そう考えれば、こうして史跡として残してもらえているだけでも御の字なのかもしれません。さすがに前に路上駐車しているのはどうかと思いますが。
あまりの暑さと予想とかけ離れた面積、そして雑草に気を取られたせいで特にこれといった思索を巡らせるわけでもなく、さっさと退散。大多喜城を横目に、街中のコンビニへと涼を求めて行軍を続けるのでした。
Say Hello to The Good-Bye
きっかけは思い出せないが、間違いなく別の件で何となくツイート検索をしていたのだと思う。
「The Good-Bye」の30年ぶりの新譜アルバム「Special ThanX」の発売が決定しました。https://t.co/hZwO9432zL
— 曾我泰久staff (@sogastaff) 2019年7月11日
ツイートの大河の中から行き着いた曾我氏のツイートには、信じ難い文言が記されていた。
The Good-Byeが、まさかの30年ぶりニューアルバム発売。リリース日発表から1ヶ月近くが経過していたが、ひとまず発売日の前に知る事が出来た。特にここ10年、こういった驚くべき情報をかなり時間が経ってから知って後悔する事ばかりなので、今回はしっかり間に合った事に自分でも驚いている。まるで引き寄せられたかのようだ。
実は、新作発表は青天の霹靂と言う程には唐突なニュースではなかった。2013年に加賀氏が旅立った直後、野村氏が自身の公式サイトで制作を明言していたのである。
あとね、アルバムを作ります。
僕らの予定通りに”The Good-Bye”の10枚目のアルバムは作ります。
でも、すみません。 曲が作れないんです。
バンドでデビューして30年。どんな時でも色々なイメージが湧いて来て、それを形にしてメンバー、そしてスタッフ、完成した物をファンのみんなへ。
今も曲作り中です。
それが僕の仕事ですから。
でも”The Good-Bye”の曲が作れないんです。
戦ってます。
自分と戦ってます。
バンドと戦ってます。
しかしこの発言から既に6年。引用した文中でもわかる通り、個人ではなくバンドとしての曲作りにかなり苦戦している事がストレートに綴られていた。2013年の30周年記念ライヴが「最後になるかもしれ」ないという発言も含め、加賀氏との永遠の別離だけが原因でない苦悩がありありと伝わってきた。
だからこそ、今回の発表には心底驚いた。ニューアルバム発売の報自体が衝撃的だったのではない。制作開始から数年の時を超え、歩みは速くなくとも本当に10枚目の新作完成を実現させた3人に驚嘆したのだ。
野村氏の懊悩煩悶の日々も、見事こうして音盤に結実したわけである。ライヴに対するネガティヴな発言もどこへやら、無事に35周年ライヴが決まっている。
THE GOOD BYE 35th ANNIVERSARY CONCERT TOUR 決定!
しかも、新作発売直後のギグなのだから、“レコ発ライヴ”という意味合いも帯びてくる。これは間違いなく解散前の現役活動中以来の事であろう。
私がファンになった2004年のリマスター再発から早15年、まさかこんな日が来るとは思わなかった。
この手の大事な情報を取り逃がしがちな私ですが、今回は偶然のツイート検索から知る事が出来ました。残念ながらライヴは行けませんが、こちらは即予約済み。私にとってのThe Good-Byeの“ハジニュー”(初めてリアルタイムで触れるニューアルバム)、期待してます。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年8月10日
既にツイッターで触れた通り、新作『Special ThanX』は私にとってThe Good-Byeの“ハジニュー”となる。
これが更新される日が来るとは。良くも悪くも人生はわからない。
気になるのは収録曲だが、野村‐曾我コンビのものが中心になるのは当然としても、“もう一人の男”のペンによる作品も録音していてほしいと思った。彼らがリスペクトを隠そうとしないThe Beatles同様に、看板ツートップ以外のメンバーの楽曲も作品中において重要な役割を占めてきた。それがバンドの特色でもあったのだ。
勿論、その人物はこの世を去ってしまったのだから書下ろしというわけにはいかないが、バンド解散後に書いた曲や、それこそデモの形で遺されたものをバンドとして完成させてほしいと図々しくも考えたのだ。
だが前述の通り野村氏の苦悩も知っていたから、そこまでの余裕はないのだろうと心のどこかで理解してもいた。新作が出るだけで十分、そう自分を納得させもしていたのだが…。
収録曲がユニバーサル(ビクターでないのが驚き)の公式サイトで発表され、私の瑣末な想いも氷解した。やはり4人でThe Good-Byeである、と残されたメンバーが力強く宣言しているかのようであった。タイトルのせいでクリックしていなかったこの記事でも、このトピックは紹介されていたようだ。
加賀さんが12年ごろに作曲して残していたメロディーに野村が歌詞を付けた「Blue」など、書き下ろしの新曲10曲を収録する。レコーディングは、野村が加賀さんの愛用ベースを演奏して行った。
夫人の池沢理美氏がデモテープを蔵出しし、メンバーに託したのであろうか? ますます『Special ThanX』が手元に届くのが楽しみになってきた。
『レコスケ君』の作者であり、ジョージ(・ハリスン)ファン&The Good-Byeファンの偉大なる先輩である本秀康氏も、かなり盛り上ってきているようだ。
このあいだ、「グッバイの新譜送るよ」と久々にやっちんから電話があって、久々すぎてしどろもどろになってしまい「買うからいらない」の一点張りの意味不明な対応をしてしまい、電話を切って落ち込んだ。ザ・グッバイ30年ぶりの新譜『Special ThanX』、心から楽しみだ!
— 本秀康 (@motomotohide) 2019年8月16日
ザ・グッバイ『Revolution No.9』は超名盤!LPはない。 pic.twitter.com/DpvE8HALT0
— 本秀康 (@motomotohide) 2019年8月16日
別のビートルズネタを元にしながら偶然4色が揃った、RYUTisとThe Good-Bye pic.twitter.com/F5tfIlyMtw
— 本秀康 (@motomotohide) 2019年8月16日
個人的に来週は少々立て込んでいるので、発売日に受け取るのは恐らく難しいと思うが(そもそもちゃんと日付通りに届くとも思えない)、いずれにせよその時をじっと待つのみである。
今回この記事を書くにあたり、過去の作品やネット上にアップされている動画のチェックを行っていたところ、当ブログ開設当初に書いた記事に重大なミスが生じている事に気付き、追記を行った事も報告する。
ファン失格と言っていいほどの由々しき見落としだが、6年越しでようやく間違いに気付けたわけだ。今後も放置され続けるよりは良かったと思いたい。これも新作リリースというサプライズのお陰である。スペシャル・サンクス。
Mr. Dohkan's Office
昨年、今川氏ゆかりの観泉寺を訪れた時の事。
Google Mapで周囲を検索しながら散歩していたのですが、この際に気になる名前の施設がありました。
「道灌公園」 。名前からして太田道灌に関係がある公園なのでしょうが、この時はチェックする事が出来ず。あれから1年以上が経過しましたが、この度機会があったので訪れてみる事に。
特にこれといって特徴もない、よくある児童公園。
平日なので人気はありません。
足を踏み入れると、案内板があります。
何か命名理由等謂れが書いてあるのかと思いきや、近隣の公園に植えてある植物の案内板で肩透かし。
しかし、確かにここは太田道灌の名を冠された公園である事は間違いない。
杉並区の公式サイトでも、書いてあるのは必要最低限の施設案内のみ。
この公園と何がどう太田道灌と関係があるのか、少なくとも現地に行っただけではさっぱりわかりません。
Google Mapのクチコミでは、肝心の公園としての機能に辛口の評価が多いのですが、この住宅地にこれだけの広さの公園があるのはなかなか羨ましいです。私が住んでいる地域などは、どこを探しても申し訳程度の面積しか備えていない、名目だけ公園とされている場所が多いのですよ。
これだけではわざわざ時間を作った意味がないので、インターネット検索してみると、在野の歴史研究家の方々の研究結果がいくつかヒット。太田道灌が豊島氏と交戦した際、この近辺に陣を敷いたとの事で、この公園の命名理由にも影響を及ぼしているのではないか、という事。
これも確実な答えではないようですが、少なくともこの一帯は昔から「道灌山」と呼称されており。地域に根差したネーミングなのでしょう。
太田道灌が、その名を関東に知らしめる事となったという、「江古田・沼袋原の戦い」。
合戦の勢力が入り組んでいて単純ではないのですが、つまり関東管領・山内上杉氏に反旗を翻した長尾氏に呼応したのが豊島氏で、上杉氏の家臣であり元々豊島氏と緊張状態にあった太田道灌がこの地の覇権を争った、という事らしいです。
「江古田」というワードがあまりにも生活感・戦後東京感が溢れているせいか、日大芸術学部の学生や漫画家達が争っているかのような貧困なイメージを抱いてしまいましたが、時は応仁の乱終息の7ヶ月前、日本全体が戦乱の時代へと雪崩れ込んでいく乱れた時代でした。
そもそも、私は太田道灌の事を「江戸城を築いた人」という事以外、何も知りません。今回この記事を書くにあたっても、さほどその知識に変わりはなかったりします。当時の辺境の地で細々と城を築く事に腐心していたような人物像を勝手に描いていましたが、少し調べただけでも才気迸る武将だった事がわかってきました。
同時に、家臣という立場だった事が、その才を疎んじる者を生み、非業の最期を遂げてしまうという皮肉を生んでしまった事も。
改めて地図を見れば、もうひとつ道灌の名を与えられた公園がすぐ近くにあります。
勿論、こちらも訪れてみました。
道中、広めの公園もありました。上記地図の「上瀬戸公園」です。
さすが杉並区、こういう施設は充実してますね。
「道灌橋公園」にあっという間に到着。
道灌公園と同じ、植物の案内板もあります。
戦いの終盤、石神井城に敗走した豊島氏を更に攻めるため、道灌はこの付近に布陣したという話。
受け売りの知識でしかないので、当たり障りのない事しか書けないのが申し訳ない。
「道灌橋」の由来は、実際にここにあった橋に由来するそう。
それを証明する石碑が、緑道の片隅にぽつんと残されていました。
石碑の裏側も、無理矢理撮影してみる。
「文明九年春よりここに五百年……」という記述が、江古田・沼袋原の戦いの年と一致します。つまり、石神井城攻略戦のために道灌によって架けられた臨時的な橋だったという事なのでしょうね(今回、自分で導き出した歴史的推測はここだけ)。
元々ここは井草川という川が流れており、現在は暗渠化されているようです。
この散歩道が、その流れに沿ったものなのでしょう。
太田道灌、今回初めてこのような形でその史跡に触れてみました。今までまともに調べた事もなく、自分の無知ぶりを実感しましたが、その生涯の痕跡が身近にあるからこそ興味を惹かれます。
上記の合戦のWikipediaページにも、「招き猫伝説」「照姫伝説」など、ファンタジックで魅力的な伝承がいくつかある事がわかりました。この日はもう一つ、道灌ゆかりの場所を訪れているのですが、今夏中にもう一度この近辺を訪れる用事があるので、その際の成果と共にブログ記事にしたいと思います。
March of Time
図書館、神社と巡ってきたこの日の視察。
最後も友人のyuz氏の案内で訪れた場所だ。
全国的に止まらない少子化の流れ。この街のような人口の少ない自治体では、当然ながらそういった時代の趨勢は押し止められない。
現在ではこの地でも次々と小学校が廃校になっているが、比較的人数の多かった我々の世代が中学に上がった頃から問題は顕著なものとなっていたようだ。当時から生徒の数が少ないとされていた小学校が、どうやら廃校になるらしい…TMNや自身のバンド活動に夢中になっていたあの頃、そんな話を耳にした記憶がある。
そしてその時はやって来た。この街で最初に役目を終えた小学校、その校舎がここに残っている。
現在は映画やドラマのロケなどで使用されているらしい。東京から決して近いとは言い難いが、高速を飛ばせば遠すぎるというわけでもない。何しろ隣県である。そんな立地でこの絶妙なノスタルジックさ。重宝されるのもわかる。
名前だけは小学生時代から何度も聞いていたが、実際に来るのは今回が初めてである。別のサイトでいくつかこの校舎を見かけた事もあるが、いざ本物を目の前にすればやはり印象は全く異なる。
グラウンドが一面だけで、この校舎が教室と講堂と体育館? を兼ねているようだ。限られた敷地面積に、必要最低限の機能をギュッと詰め込んだコンパクトすぎる造り。グラウンドもサッカーのコート1面程度しかない。
我々の幼少時は野球全盛時だったが、ここでプレーしようにも少し大きめの長打やファウルを打ってしまったら、その都度周囲の山や水田にボールを拾いに行く羽目になったであろう。『キャプテン翼』ブームでサッカーもプレー需要があったはずだが(部活もクラブも存在しないので遊びでやる以外の選択肢はなかったが)、クリアーボールやGKのパントキックが逸れたら同じように捜索を強いられたはずだ。
これほど小さい敷地の学校に、自分達が知っている人間も通っていたと思うと改めて驚く他ない。よくTVで取り上げられるような限界集落の分校などではなく、自分が生まれた土地での話なのだから。
散々ブログにも書いてきたが、私が生まれた場所は陸の孤島であり、かなりの田舎である。そこで過ごしてきた私がこういった感情を持つのだから、自分の育った環境とは隔たりがあるのだと思って頂きたい。
私の出身小学校は、我々世代の入学直前に立て替えがされており、現在問題になっている学校の冷房問題も既にあの当時クリアーしていた、今考えれば、かなりの進歩的な新設校舎だった。この街では最も生徒数が多く、私が所属していた地域もこの街では人口が比較的多かったせいもあって、どうしてもそれが基準になってしまう。
この街の他の小学校もさすがにここまで小規模な所がないので、余計に驚きの感情が増してしまうのだ。
年に一度の街の運動会では、小学校対抗のリレーがあったという記憶がある。そこに当然この学校からも代表が出ていたはずだが、所属している生徒はどのような気持ちで結果を聞いていたのだろうか。
私はそこまで親しかったわけではないが、小学生の頃から塾が一緒だった事もあり、顔を見知ったこの学校の卒業生がいた。私よりも彼と仲の良かったスピサンの相棒・ジョニー馬論の仲介で彼の家に遊びに行った事もあるのだが、彼は私の学年ではトップクラスの身体能力を誇り、中学の体育競技会などでも歴代の記録を塗り替える程の活躍を見せていた。
彼が小学生時代にこの街の運動会に出たかどうかは知らないが、あの脚の速さで出場しなかったとも考え難い。もし中学生の頃のように彼が活躍していたら、この小学校ではさながら甲子園にて都会の強豪校相手に勝利を収めた田舎のメンバー数ギリギリの公立校のように熱狂していたのだろうか。
この小学校も、私の出身校も田舎の名も知れぬ学校である事には違いないので、こういった例えもリアリティが見いだせないのが残念。
自分の生まれた街だからこそ、知らない一面を覗くと様々な感情が胸に去来し、どう表現していいかわからなくなる。知っているようで知らない事だらけ、新たに知る事実を受け止めるとたじろぎもするし、違う知識への呼び水になったりする。意外と奥深いものである。しかしながら、それが外の人間を呼べるアピールポイントになるかというと、甚だ疑問ではあるが。