Wondercliff
ブログに書く事がないので、ここを再び訪れてみる事にした。
前に友人と行った、地元の断崖絶壁にある小さな小さな社に行って高所恐怖症のゾワゾワ感をまた味わいたいと思っている。我ながらマゾだ。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2017年5月27日
我が故郷を何らかの形で発信出来ないかという友人(yuz氏)の提案で、寺社仏閣等の史跡を巡ったのがこの時。Googleマップを頼りに、名前が載っている場所を幾つか回ってみたのだが、これといってフォトジェニックな所はなく、かなりの長距離を歩いただけでこの日は終わった。
上記のツイートの場所も、本当に地域の人しか知らないような小さなもので、あまり紹介出来るようなものではなかったのだが、とにかく独特な場所にあった。個人的には、この日巡った場所で一番記憶に残ったのがここである。
前述通り、崖のような所にある社なのだが、高所恐怖症の人は訪れるのを躊躇ってしまうようなシチュエーションなのだ。
今回は、そこを目指して一人で出発。ショートカットルートを発見したので、当初の想定よりはずっと早く着いた。それでも、徒歩で片道40分はかかるが。
近くの坂道から撮った写真。お稲荷様である。
中央右寄りにある石柱が、目指す社。
上の写真だとわかりにくいが、一応ここに通じる道がある。
このように、それはかなり狭いものなのだ。
写真の撮り方がヘタなのでいまいち伝わり難いのだが、かなり急な崖だ。
真下に見えるのは人家。実際に立ってみると、それなりに断崖絶壁に感じるのだ。
正確には、絶壁ではなく角度は少しある。
これも撮り方が下手なので、崖が低いようにみえてしまうなぁ。
眼下には田園風景、そして近隣市町村への道路が見える。
人家が入らないようにトリミングしたら、画面の殆どが空になってしまった…。
社自体を撮るのは何となく失礼なような気がして、今回は控えた。というよりも、全景を撮ろうとすると崖の下に落下する危険性があるので不可能だ、と書いた方が正しいのかもしれない。
それにしても「写真が下手で高さが伝わらない」と先程から書いているが、今回の来訪ではあまり恐怖心を感じなかったのも事実だ。わざとギリギリの所まで足を踏み出してみたりもしたが、「高所恐怖症のゾワゾワ感」はついぞ味わえなかった。
やはり、前回訪れた時と違い草花が茂っているせいなのかもしれない。それが高所であるという感覚を鈍らせているように思う。勿論、私の馴れもあるだろうが。
社にある石版にはこの御稲荷様の由来が書かれているが、風化が激しく文字が判別出来ない。それほど古いもののようには見えないのだが。今回も、ちゃんとお参りして失礼する事にした。
しかしこういった小さい場所でもGoogleマップに載っているという事実に驚くし、好奇心を煽られる。
地域の人がマップに登録したり、写真を載せたりしているのであろうが、こういった外部からの来訪者からは見過ごされがちな場所にも古くからの由緒があり、歴史の中で信仰の対象として機能してきたという確たる証拠があるのだ。
実は、10年前にも似たような事をブログに書いていた。
そして謎の祠に着いたが、周りに人が多く、著しく緊張感に欠ける。 それに、去年この場所を発見した時のような興奮はなかった。あの時は、「よく知っているはずのこの土地に、こんなものがあったのか!?」という事実のみが自分を昂ぶらせていたのだな、と少し寂しくなる。
とはいえ、ミステリアスな雰囲気は十分に漂っていて、写真を撮るのをためらってしまった。 いくつかの小さな、道祖神のような石祠に護られるように木造の本堂(これも小さい)が建っている。
これだけ小さいものだと、土地のお年寄りに訊いたりしないと由来などはわからないはずだ。 こうしてその地区の、狭い地帯だけで信仰されてきた社が無数にあるのだろう。それを考えると、人の数だけ歴史があり、歴史というのはそう単純なものではないなぁと、ちょっと途方もない気分になった。
相変わらず進歩のない男である。感歎するだけでそこから前に進もうとしない。全く成長の跡が見られないのであった。
ちなみに、この引用の中に出てくる「謎の祠」だが、その後人の手が加わって整備されたにもかかわらずGoogleマップへの登録はされていないようであった。
今度こそ、成長の後を見せるチャンスが来たのかもしれない…何らかの調査を行って由緒を調べ、写真なども投稿してみたいものだ。ここからの10年の課題としたい。
閑話休題。かなり話がずれたが、帰りにこんな神社にも寄った。
それなりに有名な神社で、私とyuz氏も何度か訪れている。現政権と関係の深そうな張り紙等もある場所だ。
今回紹介したいのは、神社そのものでなく、境内にあるこれ。
先の大戦における、この地域からの出征者の名が刻まれているのだが、何とこの地域にルーツを持つ亡き我が祖父の名前を先日発見したのである。
戦没者だけが名を連ねているわけではないのだろうか。親に何となくその話をしたところ、どうやらこの地域には同姓同名の男性がおり(何しろ同じ苗字の家庭だらけなので)、後から生まれた我が祖父は本名を一字だけ変えた渾名のようなもので呼ばれていたのだという事だ。私は祖父本人からその話を聞いた事がないだけに、何とも興味深い事実である。
ここに刻まれた名前が我が祖父なのか、それとも祖父よりも先に生まれた同姓同名の方なのか。いずれにせよ、2名とも戦争によって何らかの傷を負った事には違いない。今となっては確認する手立てはないが、後世を生きる私には祈る事しか出来ないのだ。