(Revenge of the) United Minds

Talkin' 'bout Music, Football(JEF United Chiba) and More.

Castle in the Sky

 昔、ブログで紹介した地元の山の上にある祠。

 そして謎の祠に着いたが、周りに人が多く、著しく緊張感に欠ける。

 それに、去年この場所を発見した時のような興奮はなかった。あの時は、「よく知っているはずのこの土地に、こんなものがあったのか!?」という事実のみが自分を昂ぶらせていたのだな、と少し寂しくなる。

 

 とはいえ、ミステリアスな雰囲気は十分に漂っていて、写真を撮るのをためらってしまった。 いくつかの小さな、道祖神のような石祠に護られるように木造の本堂(これも小さい)が建っている。

blog.goo.ne.jp

 夏になればここは雑草が生い茂る上、春以降は虫と爬虫類出没の恐怖があり、迂闊には立ち入れない場所となります。しかし今は冬、新年から澄み渡るような晴れが続いていました。この清冽な空気が続き邪魔者が現れないうちに、祀ってある神様への年頭の挨拶の意味も込め、散歩がてら行ってみようと思いました。

 

 現地は特に変わりもなく、祠に手を合わせたりしながら先を急いだのですが、道中見慣れぬ看板を発見。どうやら、我が故郷にあった古城の史跡があるとアピールしているようです。

 これまた以前ブログで取り上げた通り(上記リンク参照)、この城の痕跡は殆ど保存もされずに風化もしくは破壊され、藩時代の石垣を僅かに残すのみ。上記リンクの記事内でも触れていますが、多くの在野の歴史研究家の方々に我が故郷の自治体が苦言を呈されているのにはショックを受け、同時に「それも仕方ない、いかにも我が故郷らしい現状だな」と納得してしまう出来事でした。
 そんな古城跡に、今更看板を掲示するほどの史跡が残っているのか。半信半疑で経路案内に従ってみる事にしました。

 

 進路を示す矢印が指していたのは、夏には生命力抜群の雑草が進路を阻んでいる道。この時は綺麗に刈り取られ、舗装された道がちゃんと見える状態です。
 そのまま進んでみると、想像もしていなかった景色が出迎えてくれました。

f:id:micalaud:20190104235955j:plain

 これ、何と古城の空堀の跡なのです。

 

 空堀跡の東側。

f:id:micalaud:20190105000045j:plain

 写真ではわかりにくいですが、全体像としてはほぼ直角のコーナーになっています。

 

 この壷は、恐らく歴史的な遺物ではないと思われます。

f:id:micalaud:20190105000203j:plain

 何となく見覚えがあるので、ここ10年の間にここを訪れた事があるのは間違いないはず。勿論、その時にこのような遺構は存在しませんでした。

 

 興奮を隠せぬまま、空堀に降りてみる。 

f:id:micalaud:20190105000232j:plain

 東側の内角部分。高さはそれなり。ちなみに、城といっても多くの人がイメージする織豊時代以降に顕著な天守を備えた壮麗なものではなく、もっと古い平安時代末期に築かれたものです。戦国の頃に出来たペーペーとは歴史が違うんですよ。

 

 こちらは外角部分。

f:id:micalaud:20190105000250j:plain

 この上から弓矢を射られたり、石を落とされたり、槍で突かれたら戦意を失いそうなくらいには高さがあります。

 

 空堀の東の突き当たり部分には、雰囲気抜群の石段が。

f:id:micalaud:20190105000518j:plain

 勿論喜び勇んで下りましたが、これが急峻な上に不安定! 階段が崩れ落ちる恐怖や急な角度による転落の危険性を考慮しながら、両脇の竹にしがみつくようにして一歩一歩進みます。鍛練を積んだ人、道に馴れている人、怖いもの知らずの人でないと難しそうな道。ここに日が落ちてから来る勇気を、私は持ち合わせていません。

 

 階段を下りきると、近代以前から変わっていないかのような風景が広がっています。

f:id:micalaud:20190105000533j:plain

 更にこの道は民家の庭と思われる場所に繋がっており、遠慮して引き返したのですが、どうやらそこは地区の寄合場所だった模様。つまり、道路からこの道を登ればすぐに空堀に着けるのですが、私は出来るだけこのルートは避けたいと思います。何しろ危険なので…。

 

 空堀に戻ります。

f:id:micalaud:20190105000546j:plain

 案内用の看板が立っていますが、つまりこれは我が故郷がここをちゃんと史跡として整備し、残そうとしているという明確な意思がある事を示しているのではないでしょうか。 

 

 冬晴れに映える空堀の北側突き当たり部分。

f:id:micalaud:20190105000559j:plain

 勿論、実際の空堀はこの3倍以上の長さがあり、城の北東部の一角の防衛ラインとなっていたようです。

 

 空堀だけでなく、他にも発見がありました。前述記事と共に取り上げた、小学生時代を共にした森や山の中にあった道。

blog.goo.ne.jp

 完全に消え失せたと思われた思い出の地は、実はまだ部分的に現存していたのです。

f:id:micalaud:20190105000650j:plain
 当然ながら大きく変化しており、姿を消した場所も多いですが、例えばこのミカンの木は見覚えがあります。

 

 そしてこの細い道。マラソン大会の練習(BGMは校舎から繰り返し流れる「Rydeen」で、勿論私のYMO原体験)で何度も通過しました。もう完全に記憶の中に閉じ込められ、二度と再会する事は出来ない場所だと思っていました。

f:id:micalaud:20190105000701j:plain

 当時はもっと広い道だったような印象があるのですが、小学生の視点と今とでは違いがあって当然ですね。

 

 それなりに長く由緒ある歴史があるのに、それに目を向けない文化的な視点に欠けた街。そんなイメージを故郷に抱いていましたが、この新たな史跡の存在を知り、ちょっとこの自治体を見直しました。やれば出来るじゃないか! と。現在ここに住んでいない人間が無責任に言う事でないのは承知していますが、外から見ているからこそ現状にはがゆい思いをしていたのです。


 歴史の重みと、それなりの迫力を感じさせてくれる規模の史跡の誕生。加えて、消えたと思っていた思い出の場所が、史跡整備に伴う作業で現存していた事が明らかになった。ダブルで興奮すべき事態が存在していた事、正月からなかなか鼻息が荒くなってしまいました。
 歴史保護が盛んだったり、史跡名刹が観光地として多数ある地域の方からすれば「この程度でそこまで騒ぐのか?」と思われるかもしれませんが、それが出来なかったのが今までの我が故郷だったのです! 大きな一歩を踏み出した事、私は素直に賞賛したい。
 友人のyuz氏は「あと少しでここにはゴミが散乱するようになるし、最悪廃棄物の遺棄場所になるだろう」とディストピア的展望を述べていて、それを全く否定出来ない自分もいるのですが…(過去の経験の蓄積からの推測であり、偏見ではない)それでも、きっとここはしっかり守ってもらえるのではないかという前向きな展望を持っています。根拠はありませんが。

 

 更に、案内の看板から新たな知識を得、それが更なる探求心に火を点けそう。焦る必要もないので、じっくり探っていこうと思っています。