(Revenge of the) United Minds

Talkin' 'bout Music, Football(JEF United Chiba) and More.

21st. Apr. 1994

 小学生時代からあれほど愛したTMNTM Network)が“プロジェクト終了”を発表した際、大きなショックを受けたのは確かですが、同時に予測されていた結末がいよいよ来たか、という感覚もありました。

 1991年の『Expo』(その後リリースされた「Wild Heaven」はこのアルバムの没曲)とそれに伴う長期ツアー以降、パーマネントな活動を行っていなかったTMNの3人は、それぞれソロ活動に移行。3年近くまとまった音源のリリースがなかった状況で、活動再開の噂も耳にはしていたとはいえ(当時「1994年にニューシングルと10周年記念アルバム発表か?」という記事は幾つか目撃)、かつてのような熱意と野心で次の展望を見せてくれそうな気配を感じる事は困難でした。

 この“終了”を知らせる新聞広告は、「当初の予定通りTMNプロジェクトを終了」という重々しい文言で始まります。全てはデビュー当初からの規定事項であった、と種明かしする事で、常にコンセプチュアルなユニットだった彼らの面目を保ったかのような演出を行ったのでしょう。

 しかし、熱狂的FANKS(TM Networkのファンを指す通称)であった私でもその設定には懐疑的でした。10周年記念のリリースの噂があった事、それらしい結末がある事をメンバーが仄めかすような事もなかった事、なによりグループ名をTM NetworkからTMNへと“リニューアル”してから明らかに活動が鈍っていた事。これらを振り返ると、どうしても後付けの設定としか受け取れなかったのが正直なところ。

 あれからTMに関する在野の論者の推論や、時と共に明かされていった内幕。それを知った今となっては、小室氏がtrfのブレイク(「Ez Do Dance」)の機を逃さず、自らのプロデュース業への転身を華々しく飾りたいがためのTMN終了であった、という事を今の私は知っているわけです。そのために、宇都宮・木根両氏を振り回してまで強引に決定してしまった事も。周囲に自らを「小室」と呼ばせる(名前が同じため)ほど心酔していた当時の私さえ、彼のこういったエゴイスティックな面は受け入れがたいものがありました。

 

 TMN終了ライブには、二つの苦い思い出があります。

 一つは、直前でライブ行きを断念しなければならなかった事。親の了解が得られなかったためで、責任は私にありますがとても悔しい記憶です。
 友人が安くはないチケットを取っているのにドタキャンする、この事の重大性を親もわかっていなかったと思うのですが、少なくとも高校生の子供にこの決定を覆す力はありません。無断でライブ行きを強行しようにも、私の故郷はあまりにも水道橋へは遠すぎた。
 東京隣県の千葉県出身という事で故郷の陸の孤島ぶりが人に伝わりにくい事が多く、度々誤解が生まれてこちらが困惑する事が多いのですが、主要駅である隣街のJR駅までバスで片道1時間、運賃は1000円近く必要になるという僻地(現在はこの問題も解消されているが)。親の協力なくして上京するなど、夢のまた夢です。2019年の今なら他に手段もあったかもしれませんが、あの当時は手の打ちようがありませんでした。

 TMを仲間達に紹介し、音楽的にも中心メンバー気取りだった私が、TM最後の瞬間を見届けられなくなったという現実。さすがにライブ当日には様々な想いが去来し、呆然としている所を親に叱責された事を覚えています。

 もう一つは、このライブをきっかけとする、とある人物との人間関係の終焉。今考えれば必然だったようにも思いますが、傷は傷として今でも心に残っています。

 

 ラストライブに行けなかった事で、すぐに頭を切り替える事を迫られました。TMは終わり、3人はそれぞれの道へと進んだ。全く共感出来なかった小室氏のプロデュース業を追う必要もないし、自分も新たな方向へと歩み出すべきだ、と。

micalaud.hatenablog.com 以前もブログに書きましたが、TMN終了は私にとっての「Childhood’s End」だったのです。最期の瞬間を見届けられなかった事は残念でしたが、ドライに判断する事を強いられたお陰でショックを引きずらずに済みました。

 

 そもそも、最後のライブである『Last Groove』には不満もありました。

 まずサウンド。リードギタリストが2人呼ばれているため、どうしてもギター中心のサウンドになってしまう。誤解のないように書いておきますが、北島健二氏も葛城哲哉氏も私は好きなギタリストだし、このライブでもそのテクニックを思う存分見せ付けてくれました。
 だがその分、メンバーである木根氏の影は薄くなる。元々リズムギターがライヴで与えられた彼の役割なのですが、それでも過去のライブではソロの見せ場が用意されたり、得意とするカッティングやアコースティックギターの音が前面にフィーチャーされる場面がありました。
 重厚すぎるディストーションギターの音が、私には最後の祝祭感を盛り上げるというよりは、メンバーの1人を蔑ろにしているように感じられたのです。

 もう一つは、ライブアレンジがされず、ほぼ原曲通りの編曲で演奏された事。勿論最後のベストヒットライブなので余計なアレンジは必要なかったのかもしれませんが、TMのライブといえば原曲とは大幅に様変わりさせてしまうほどの猛烈なアレンジが魅力であり、売りの一つだったと思っています。それがなかった事で、余計に「終了」を意識させられました。
 今となっては、プランの変更によって行われた「終了プロジェクト」のスケジュールの都合上で、ライブアレンジを小室氏が手掛ける時間がなかった事(“終了”直後に仕掛けるtrf篠原涼子作品の準備で多忙だった)、そのために各ミュージシャンの演奏技量に頼る割合が大幅に増えた事は理解しており、こういった形になった事は唯一の最適解だったのでしょう。

 しかし、当時の私はそこまでの裏事情は知らなかった。自分がその場にいられなかった悔しさというよりは、以上の理由で積極的にこのライブの関連商品を買う気にはなれませんでした。

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 友人が予約してくれた高額なボックス(今考えると良心的な価格だが)『Groove Gear』は付き合いで購入したものの、ベスト3枚『Black』『Red』『Blue』は未だに持っていません。レア曲1曲のためにベスト盤に割くお金がなかったのは勿論ですが、前述通り私も次に進みたかったのだと思います。
 この年の夏に、無理をして聴いていたHR/HMを追うのもやめ、楽器関連の雑誌も殆ど手に取らなくなりました。

micalaud.hatenablog.com

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 この事は以前記事にした通り。秋からはPet Shop BoysAztec Cameraを聴き始め、翌年末にはThe Beatlesのアンソロジー・プロジェクトが待っていました。本格的な洋楽への誘いが、年の後半には始まったのです(ちゃんと聴き始めるのは上京後だが)。

 

 TM終了と共に、高校卒業後まで友人達とは疎遠になりました。ここから暗黒の高校時代が深化し、大学受験へ向けて悩みの日々が続いていく事になります。気の合う仲間とTMの音楽を聴いて無邪気に歌っていた時代は去り、少しずつではありますが現実との格闘が始まるのです。

 烏滸がましいようですが、それはTMの3人にとっても同じだったのかもしれません。
時代の寵児となり栄華を極めた小室氏ですが、TKブームは5~6年で終了。かつての名声を取り戻そうと手を尽くしますが、結果としてそれは2009年のあの事件へと繋がっていきます。
 宇都宮・木根両氏もメジャーシーンでの売り上げは著しく低下。未だに自分達の手で地道に活動を継続している彼らを私は大いにリスペクトしていますが、音楽界におけるプレゼンスの面で意地悪な見方をする人は多いでしょう。

 どちらの音楽人生が正解なのか、私にはわかりません。しかし全員が音楽業界に残ったという事実は、1999年のTM復活、そしてその後の断続的な活動の礎になりました。
 小室氏の事情に左右される、私からすればストレスの溜まる活動続きでしたが、30周年記念とアルバム『Quit30』を基幹とする一連の活動は、ようやく終了前のようなアグレッシブで印象深いものとなり、TM健在を見せ付けてくれ、とても嬉しくなりました(アルバムの出来自体はともかく)。ようやく、本気のTMが帰ってきたのだと実感出来る活動でした。

 

 何度も書いていますが、私にとっての音楽の原点がThe BeatlesTM Networkです。これは自分史に残る事実であり、この先も変えようがありません。

amass.jp

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 そんな彼らの記念すべきデビュー35周年のアニバーサリーを、あの頃の仲間やFANKSの方々と過ごせたのは幸せな体験でした。何故私が彼らを愛したのか、改めて再確認する作業でもありました。

 これで終わりではなく、願わくば続きがある事を祈りつつ。35周年、おめでとうございます。