Mr. Dohkan's Office
昨年、今川氏ゆかりの観泉寺を訪れた時の事。
Google Mapで周囲を検索しながら散歩していたのですが、この際に気になる名前の施設がありました。
「道灌公園」 。名前からして太田道灌に関係がある公園なのでしょうが、この時はチェックする事が出来ず。あれから1年以上が経過しましたが、この度機会があったので訪れてみる事に。
特にこれといって特徴もない、よくある児童公園。
平日なので人気はありません。
足を踏み入れると、案内板があります。
何か命名理由等謂れが書いてあるのかと思いきや、近隣の公園に植えてある植物の案内板で肩透かし。
しかし、確かにここは太田道灌の名を冠された公園である事は間違いない。
杉並区の公式サイトでも、書いてあるのは必要最低限の施設案内のみ。
この公園と何がどう太田道灌と関係があるのか、少なくとも現地に行っただけではさっぱりわかりません。
Google Mapのクチコミでは、肝心の公園としての機能に辛口の評価が多いのですが、この住宅地にこれだけの広さの公園があるのはなかなか羨ましいです。私が住んでいる地域などは、どこを探しても申し訳程度の面積しか備えていない、名目だけ公園とされている場所が多いのですよ。
これだけではわざわざ時間を作った意味がないので、インターネット検索してみると、在野の歴史研究家の方々の研究結果がいくつかヒット。太田道灌が豊島氏と交戦した際、この近辺に陣を敷いたとの事で、この公園の命名理由にも影響を及ぼしているのではないか、という事。
これも確実な答えではないようですが、少なくともこの一帯は昔から「道灌山」と呼称されており。地域に根差したネーミングなのでしょう。
太田道灌が、その名を関東に知らしめる事となったという、「江古田・沼袋原の戦い」。
合戦の勢力が入り組んでいて単純ではないのですが、つまり関東管領・山内上杉氏に反旗を翻した長尾氏に呼応したのが豊島氏で、上杉氏の家臣であり元々豊島氏と緊張状態にあった太田道灌がこの地の覇権を争った、という事らしいです。
「江古田」というワードがあまりにも生活感・戦後東京感が溢れているせいか、日大芸術学部の学生や漫画家達が争っているかのような貧困なイメージを抱いてしまいましたが、時は応仁の乱終息の7ヶ月前、日本全体が戦乱の時代へと雪崩れ込んでいく乱れた時代でした。
そもそも、私は太田道灌の事を「江戸城を築いた人」という事以外、何も知りません。今回この記事を書くにあたっても、さほどその知識に変わりはなかったりします。当時の辺境の地で細々と城を築く事に腐心していたような人物像を勝手に描いていましたが、少し調べただけでも才気迸る武将だった事がわかってきました。
同時に、家臣という立場だった事が、その才を疎んじる者を生み、非業の最期を遂げてしまうという皮肉を生んでしまった事も。
改めて地図を見れば、もうひとつ道灌の名を与えられた公園がすぐ近くにあります。
勿論、こちらも訪れてみました。
道中、広めの公園もありました。上記地図の「上瀬戸公園」です。
さすが杉並区、こういう施設は充実してますね。
「道灌橋公園」にあっという間に到着。
道灌公園と同じ、植物の案内板もあります。
戦いの終盤、石神井城に敗走した豊島氏を更に攻めるため、道灌はこの付近に布陣したという話。
受け売りの知識でしかないので、当たり障りのない事しか書けないのが申し訳ない。
「道灌橋」の由来は、実際にここにあった橋に由来するそう。
それを証明する石碑が、緑道の片隅にぽつんと残されていました。
石碑の裏側も、無理矢理撮影してみる。
「文明九年春よりここに五百年……」という記述が、江古田・沼袋原の戦いの年と一致します。つまり、石神井城攻略戦のために道灌によって架けられた臨時的な橋だったという事なのでしょうね(今回、自分で導き出した歴史的推測はここだけ)。
元々ここは井草川という川が流れており、現在は暗渠化されているようです。
この散歩道が、その流れに沿ったものなのでしょう。
太田道灌、今回初めてこのような形でその史跡に触れてみました。今までまともに調べた事もなく、自分の無知ぶりを実感しましたが、その生涯の痕跡が身近にあるからこそ興味を惹かれます。
上記の合戦のWikipediaページにも、「招き猫伝説」「照姫伝説」など、ファンタジックで魅力的な伝承がいくつかある事がわかりました。この日はもう一つ、道灌ゆかりの場所を訪れているのですが、今夏中にもう一度この近辺を訪れる用事があるので、その際の成果と共にブログ記事にしたいと思います。