Go Go Go Castle
昨年、故郷に突如出現した城址(正確には堀跡)。
記事中の写真でも紹介した史跡紹介のための看板には、まだ見ぬ別の城の存在も記されており、好奇心を刺激されたのでした。
実は前述の記事の堀跡を訪問した翌日、インターネット上の情報だけを頼りに早速現地へと向かっています。
散歩がてら、城址があるとされる山中に入ったはいいのですが…。
そもそも原典の資料を参照したり、この地の歴史を把握したりして向かったわけではなく、ネット上で在野の研究家の方々が書かれたサイトを孫引きしている程度の甘さなので、現地を見ても何ら具体的なイメージが湧いてこない状態。
これらは城郭の跡地か、土塁か、空堀か…何となく見た目の印象だけで写真を撮りましたが、恐らく城郭の中心部と思われる場所には農耕に励まれる方もおり、核心には迫れず。データの拠り所をネットの歴史サイトに求めるわけにもいかず、記事にするだけの説得力を持てずに一年以上放置していました。
この丘陵が、城の中心部であったとされています。
急傾斜の上にあるので、城を置くには適した場所だったのではないでしょうか。勿論天守がある時代よりももっと前のものですが、往時はここから館の一部くらいは見えたのではないかと思われます。
この城の存在は常に意識しながらも、記事にする事はほぼ諦めていた昨年。しかし年明けに事態は動きました。昨年から史跡化と住民向けの歴史フィールドワークに力を入れ始めた自治体が、解説員を招いて城跡を紹介するワークショップを開催(歴史ガイド育成という名目)。しかもその解説員は私がネットで参照したサイトの管理人であるという。残念ながら私はそこには参加出来ませんでしたが、このイベントで配布された城の全体図を入手したので、1年ぶりに再訪する事にしました。
何となく回り道をするのが億劫に感じられ、上記画像下部中央の暗がりに山道を発見した私は、初めて通る場所にも関わらずショートカットを試みる事にしました。
現在の城跡は耕作地となっており、恐らくそこへ向かうための道として使われているのでしょうが、昨年の度重なる台風によると思われる影響が出ており、ご覧の通りかなり荒廃しています。アイス片手に気軽に登っていい道ではなかった。
台風被害の顕著な例。大きく滑落した土砂が行く手を阻みます。
この画像ではわかりにくいですが、道だったと思しき個所は抉り取られ、歩けるスペースは僅かしか残っていません。
この心許ない道らしきものを、右の急斜面にしがみつくようにして進みます。崩落の危険性は高く、引き返す事も考えました。これだけの山中では自治体も対策を行うとは思えず、恐らくこの道は近い将来封じられるのではないでしょうか。つくづく気軽に足を踏み入れていい場所ではなかったと実感…。
難所を乗り越え、無事に山頂に到着。
城郭の西部にあたる場所で、何やら樹木が植えられていました。
時は鎌倉幕府崩壊直後。京都にて足利軍が新田・楠木軍と一進一退の攻防を続け、遂に破ったまさにその年。暮れには南北朝時代が幕を開ける動乱の中、ここ下総の地でも名門・千葉家が一族内で骨肉の争いを繰り広げていました。
中央の流れとは関係なく、地方の片隅で行われた勢力争い…と思われるかもしれませんが、実は南北朝の争いと密接に結び付いており、一族の中で北朝に付いた者と南朝に付いた者の争いでもあったのです。
ネット上での資料検索には限界があり、諸説ありすぎて詳細を掴もうにも少々混乱していますが、ともかくそういった時代の流れの中での一族内での争いの舞台の一つがこの城のようです。
昨年は立ち入れなかった、城郭の中央部と思われる場所。
この城全体がそうであるように、現在は畑になっています。勝手に入るわけにはいかないので、道から撮影。
先述のワークショップの解説によれば、高台に位置しているのは敵の侵入を防ぐため、領内の住民を戦時に匿えるようにするためだという事。
現在放映中の大河ドラマ『麒麟がくる』第1話でも、斎藤家領内の農民が合戦時に稲葉山城内に逃げ込んでいる描写がありましたが、城にはそういう役割もあったわけです。
城郭の北西部に張り出した部分。耕されていない畑がありました。
このすぐ近くに墓地や神社が存在しますが、それはあくまで城外に置いてあり、城郭内にそういったものは入れないようにしていたらしいです。
このすぐ近くにも山道らしきものがありました。
つい先刻強烈な場所を通ったばかりなので、さすがにここへ踏み出せるほどの度胸はありませんでしたが。
この城は城主も不明、南北朝時代以後の顛末も不明と謎に包まれています。唯一記述のある原書は読んでみたいと思っており、もしそれが叶えば再び記事にしたいと思います。いずれにせよ、来月になれば早くも虫や爬虫類が暗躍し始めますので、今年の探索はこれで終了となりますが。
更に、前述の地図によればこの近くにもう一つ古城が存在していたとの記述も。
この記事で訪れた神社が、まさにその城址であったとの事。ちょうど10年前の出来事ですが、その数字よりも「震災前の出来事」という事実に時間の経過を感じてしまいます。
自治体の積極策の一環か、ここにも案内の看板が出来ています。
ライトアップはこの敷地の管理者の方が自主的に行っているのかもしれません。
実は今年に入ってからここも訪れているのですが、この案内板以外には特にこれといった解説は記されておらず、10年前に訪れた時と何も変わっていませんでした(それ以降もちょくちょく散歩コースとして通っていますが)。切通らしきものがあるのは何となくわかりますが、自分のように上澄みだけの調査で訪れている人間には詳細がわかりません。前述の歴史サイトの管理人の方々も、ここには手を焼かれているようで遺構が見当たらないとか。資料も少ないようです。
その後に名を知られ、特に戦国時代以降に作られた城でないと全容を知るのは容易ではありません。私も研究をするのならば、もっとちゃんとした資料を参照しなければならないと痛感した次第です。