(Revenge of the) United Minds

Talkin' 'bout Music, Football(JEF United Chiba) and More.

In Memory of Niagara Vol.1

 ツイッター上では未だに大滝詠一氏を偲ぶツイートばかりしていますが、この流れはまだまだ続くと思います。昨年の末に届いた訃報はそれだけ私にとっては重大な出来事だったという事で、ご理解頂けると幸いです。

 ツイートの殆どは最近感じたナイアガラ関連の出来事ですが、過去に起こった出来事などにも触れています。そんな事をツイートしながら思ったのは、ブログで大滝氏に関する思い出を語る機会があまりなかったな、という事。ジョージやビートルズに関しては何度も繰り返し書いているのですが。

 という事で、今後はこのブログでも折に触れナイアガラに関する思い出を綴っていきたいと思います。

 

 最初に大滝氏のアルバムを買ったのが2001年の春。その辺りの出来事は別の回に譲るとして、そこからじわじわとナイアガラ関連の音源を集めていきました。

 “相方”馬論もナイアガラの楽曲、及びコンセプトに素早く見事に共感してくれ(これがここ数年との大きな違いだな…)、我々スピサンの音楽にも色濃く影響を及ぼしていくのです。

 翌年である2002年、まずはワールドカップに捧げるアルバム(この呼び方が不味ければ、音源集やデモ集と脳内で変換を)を制作した我々は、すぐさまポップ・アルバムの制作を開始します。

 一年で二作の音源集を制作したのは、後にも先にもこの年だけ(EPサイズの曲数のものならあったが)。それだけ創作意欲に溢れていたという事もありますが、これはナイアガラ瀑布の圧倒的なパワーに突き動かされたとしか思えないペースでした。

 

 このアルバムでは、具体的に大滝氏から得たヒントやアイデアを直接的に形にしました。

 

・とにかくメロディアスでポップな曲を並べる

 ソニー移籍後のナイアガラ三部作(『A Long Vacation』『Niagara Triangle Vol.2』『Each Time』)の珠玉のメロディに、心をガッチリと掴まれたのが原因です。

・反面、歌詞は切ない内容のものに

 「『A Long Vacation』も『Each Time』も、別にリゾートでもなんでもなく、別れの歌ばっかりなんだよ(大意)」という氏のインタビューが非常に心に残っていたので、サウンドとのギャップを狙ったのだと思います。メンバーに詞を依頼する時も、「別れをテーマにしてくれ」とわざわざ注文を付けました。ただし、ラスト2曲はポジティブな内容の詞で「大団円」的効果を狙っています。

・過去の曲からの引用

 私はギターのオブリにビートルズとジョージのフレーズを引用したのが1曲、馬論はELOのアレンジを自分なりに解釈したのが1曲ありました。ただし、それが大滝氏のような必然性があったかといえば謎ですが…その後知る事になる、初期のThe Good-Byeがやったような元ネタ仕込み程度の無邪気なものでした。だから彼らの楽曲にはとても共感したのでしょうね。

・ナイアガラ・サウンドの模倣

 直接的に大滝氏の音を再現しようと試みました。貧弱な機材と能力では当然限界はありますが、それでもやってみたくなるのが人情というもの。ただし、これは大滝氏というより、当時モロにナイアガラ・リスペクトな曲「七色の風」を発表していたキンモクセイの影響(というよりも対抗心)でしょう。

・変名の多用

 これは単なる遊び、悪ふざけですね。大滝氏に倣って、単にクレジットに幾つもの変名を使ったというだけです。とはいえ、ここで生まれた“ジョニー馬論”という名前を彼はHNとしてその後も使うようになるわけで、決して無駄ではなかったのでしょう。私は“シャヴィ西川”“八幡山行男”“所張尊”という名を考えましたが、この後使う機会が殆どありません。

 

 このような感じで、とても若者らしい、お遊戯のような影響の発露であったのは確かです。大滝氏や細野氏が望んだような、彼らのルーツを辿って消化するのではなく、素直に受けたものをそのまま提示するだけの表層的なやり方になってしまった感は否めません。

 とはいえ、すぐさまやりたい事を形に出来る瞬発力があったのは事実ですし、その時作ってみたいサウンドを求めるのはミュージシャンの端くれとしても当然の事だと思っています。

 それが出来たのも、我々スピサンが今よりずっと阿吽の呼吸で活動出来ていたから、そして何より若かったからなのでしょう。惜しむらくは、今後も永遠に公開は不可能である程度の出来である事でしょうか。個人的には、今聴いてもなかなか良い曲もあるんですけどね。

 

 この後、『Niagara Calender』のアイデアを丸ごとパクったアルバムを作った以外は、大滝氏のサウンドを直接的に模倣するような曲は殆ど作っていません。そういう段階は終わり、もっと根本的な部分で受けた影響を曲作りに活かすフェーズに突入したのです。

 子供じみたデディケーションではありましたが、我々にとっては必要なプロセスであり、こういった遊びを真剣にやれたのは幸せな事だったと思います。