(Revenge of the) United Minds

Talkin' 'bout Music, Football(JEF United Chiba) and More.

電位戦隊デンシマン

 先日帰省した際(度々帰っているのだが)、かつて近所にいた人々の話を両親とした。下総の訛りが強かった八百屋のお婆さん、愛人に船を買わせた居酒屋の女店主など。

 

 その中で、とある老婆の話になった。母が言った「おとなしくて物静かなお婆さん」は、我が家で“電子”と呼ばれていた機器を借りるために、たまに来訪していたらしい。電気代としていつも50円を置いていったという、何やら1960年代辺りのようなエピソードも話してくれたが、私は全く記憶に無い。両親が共働きのため、祖父母と接する事が非常に多かった私。故に、その人とも言葉を交わした事くらいはあるのだろうが、今となっては何も覚えていないのである。
 問題は、我が両親ですらその人物が何者かを忘れている事だ。私の地元の出身地区は人口が多い(我が所属自治体の中では)割に地域活動に(無駄に)熱心で、地区の人間と顔を合わせる機会が多い。

 よって、基本的には近所の人間とは殆ど顔見知りなのだが、そんな地区において両親が覚えていない人物となるとかなりのレアケースという事になる。他地区の人という事も考えられるが、無駄に広い市町村なので自転車等でないと来るのは難しいだろう。その可能性は薄い気がする。
 そして時は流れた。その人物の事を確認する手段はほぼ存在しないと言っていい。唯一にして最大の手掛かりである我が祖父母が、この世を去って久しいからだ。
 語る人がいなくなれば、記憶も薄れていってしまう。その人は確かに存在し、恐らく私も接した事があるはずなのに、もうそれが誰かを調べる術はない。何とももどかしく、妙な気分であった。

 

 

 さて、“電子”という言葉を先程使った。これはあくまで我が家族内での通称で、本来は「電位治療器」という呼称らしい。詳細はリンク先で確認されたい。

電位治療器 - Wikipedia
 これが何故我が家にあったかというと、祖父母が私のために購入したためである。私の生まれつきの右目の弱視に振り回されていたのは、当然ながら両親だけではなかった。特に祖母は、私の右目がおかしい事に最初に気付き、地元の眼科に連れて行ったくらいだから、特に心を痛めていたものと思われる。
 当時の我が街はまだ活気があり、商店街にスペースが設置され、そこで度々セールスマンが実演販売を行っていた(らしい。私自身は見た事がない)。恐らく、そこで「お孫さんの体にもきっと良い影響を与えるはずですよ!」などとセールストークに上手く丸め込まれてしまったのであろう。
 決して安くはない、むしろ高額な機器。恐らく購入にあたり、祖母と父の間で口論もあったと予想される。だが、様々な病院へ私を連れ歩いた両親(愉快でない思いも多くしたらしい)同様、祖父母も必死だったのだろう。私はその行為を「無駄な買い物だった」等と後付けで評論めいた事を言う資格はないし、そんなつもりもない。ただ感謝である。


 当時主に通った3つの医者から、それぞれに日々のノルマを課されていた私。

 玄米食・下校後のマラソン(ジョギング程度の速度や距離ではないのでこう書く)は木更津の東洋医学の医師から。

 マラソン後の電熱器による治療と視力回復マシーンを使ったトレーニングは千葉の視力回復センターから。

 寝る前の視力測定は近隣の総合病院から(結果が悪いと叱責を受けるため、個人的にはここが一番憂鬱だった)。

 この中に、“電子”が加わる事となった。正直、これに関してはそこまで熱心には行っていなかったが…。

 だが、こういった過酷なメニューも、中学校に進学した際に全て中断してしまった。担当医の廃業や入れ換えが行われたタイミングに、忙しくなった学校生活が加わったのが原因だろうが、大きな理由は私も両親も前述のトレーニングめいたものに全く効果を感じていなかった事ではないかと思う。

 ひとまず、両親や祖父母が付きっ切りで私の右目を心配をする時代は、ここで終わった。


 だが、両親にも祖父母にもここまで手を掛けて育ててもらったにも関わらず、現状では恩返しどころか親不孝道をまっしぐらに走っている最中。さすがにこのままではまずい、と思う気持ちは多少なりともある 。
 少なくとも、自分が自分の未来を投げ出すような事だけは避けたいと思う。「お前にはNo future!」と私の事をよく知らないジョニー・ロットンめいた者達に叫ばれようとも、私はこのまま力尽きるわけにはいかないのである。私は、まだまだ何も諦めたつもりではない。

 

 ちなみに、私の目の治療は高校三年の夏に訪れた千葉の名医の一言によって、一応の結末を迎える事となった。
「あなたの眼球は生まれつき特殊な形状なので、もう治りません。これからは、維持していく事を考えましょう」
 自分でも薄々感付いていただけに、粛々とその事実を受け入れた事を思い出す。それは同行していた両親も同じだっただろう(私よりはショックを受けただろうが)。祖父母にその事を伝えたかどうかは、もう覚えていない。