Sir Knight
昨年、自室から数冊の本が発掘された。
右の『ビジュアル版 最後の藩主』は買った記憶があるが、他は完全に購入した事を忘れていたものだ。殆ど手付かずのまま所在がわからなくなっていた事もあって、どれも状態は良い。
しばらくの間、左の『幕末江戸史跡紀行』を参照しながら、自転車で行ける範囲の史跡を訪ねてみようと思った。ブログの更新ネタのために、この本をフル活用しようという所存である。
歴史を追って重要スポットを紹介しているだけに、本の序盤は横須賀市(浦賀)や下田市など都外が中心。黒船来航、開港と来ると、順番としては安政の大獄が取り上げられるのは自然な流れだ。
この弾圧で命を落とした者達の墓所が多く紹介されているが、その中で目に留まったのは橋下佐内。地理的にも難なく自転車で行ける距離であり、現在放映中の大河ドラマ『晴天を衝け』でも彼がちょうど最期を迎えたばかりの時期だった。何となく偶然ではないような心持になり、所縁の史跡を訪れる事にした。
小塚原回向院
現在、二つある佐内の墓のうち、片方がある御寺。もう片方は、地元福井の善慶寺にあるとの事だ。
その名の通り、江戸の二大刑場である小塚原刑場でその身を散らした受刑者達の霊を弔うため開創された。
小塚原刑場の紹介パネルと共に、史跡ゾーンへの案内があった。
ちゃんと墓地が分けられているのは、こちらも気兼ねなく訪れる事が出来て素晴らしい。
史跡ゾーンには、吉田松陰、頼三樹三郎といった佐内同様に安政の大獄で弾圧を受けた志士の墓もあったようだが、今回は特に確認しなかった。いずれまた訪れる事もあるだろう。
右には、ストロング・スタイルの祖、プロレスの神カール・ゴッチの墓も見える。
最近、よくプロレスラーのYouTubeチャンネルを見ては彼の話を聞く機会が多いので(直近では古舘伊知郎と藤波辰爾の対談で話題に挙がっていた)、これもタイムリーだと感じる。
金属で補強された、「景岳橋本君碑」なる迫力ある大きさの石碑。
「景岳」とは、橋本左内の号だとWikipediaにはある。彼の後世への影響を感じさせる、見事な造りの史跡だ。
そして、この石堂の中にあるのが佐内の墓。
開明的な藩主・松平春嶽の片腕として活躍し、水戸学の藤田東湖とも交流を持った維新初期の重要人物。墓を守るためにこのような堂が建てられるのも、当然の扱いかもしれない。大河ドラマ等では、序盤数回に登場して出番が終わってしまう事が多いのだが。
この御寺は、「吉展ちゃん事件」の被害者の霊を弔う地蔵も入り口に設置されている。無念の想いを抱いたままこの世を去った人が、この地には多く眠っているという事だ。
私の記憶が確かならば、学生時代に一度ここを訪れた事がある。真夜中だったので当然中に入る事は出来なかったが、同行していた友人と小塚原刑場や吉田松陰の話をした事、塀の向こうの暗がりをジャンプして覗こうとした事だけは覚えている。どういうルートでここに来たのか、それは完全に忘れてしまったが。
橋本左内の墓旧套堂
近くにもう一つ史跡があるとの事で、足を延ばしてみる。
上記リンクによれば、
との事だが、こちらがオリジナルで、先程訪れた回向院にあったものはレプリカだという事なのだろうか。明治時代に建てられたコンクリート製の鞘堂(墓を収める御堂)は、かなり先進的な建築だったとある。
現在は、荒川区の歴史を展示する「荒川ふるさと文化館」前に設置されている佐内の像。
いつか、この館も訪れなくてはなるまい。
佐内は尊王攘夷を説き、過激な思想を振りかざしたわけではない。一橋慶喜を将軍に擁立しようと働きかけた事が、幕府の逆鱗に触れた。25歳、若すぎる最期に驚くしかない。
思えば2度目の京都旅行において、私は福井藩邸跡に建つホテルに宿泊していたのだった。
あれから9年、ようやく福井藩出身者の史跡を訪ねる事が出来た。時の流れの速さに改めて驚くと共に、まだまだ訪れなければならない場所が多いのだと再認識する。
冒頭の本を参考にした史跡探訪は、しばらく続けていこうと思う。