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Chiba Archives

 我がスマートフォンのブラウザが、こんな企画展の開催を告知していた。

diamond.jp

 スターとは昨年の10月らしいが、それまで全く知らず。会期も残り僅かな中、駆け込みで鑑賞してきた。おすすめニュース機能の有用性を改めて実感した次第である。

 

 千葉県文書館。本千葉駅から千葉駅まで徒歩で向かう際に通過したこともあるのだろうが、特に意識した事はなかった。入館するのは、当然ながら今回が初めて。

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 平日の午後という事もあって、自分以外に展示室を訪れる人はいない。お陰で周囲を気にすることなく、隅から隅まで資料を熟読する事が出来る。

 

 無学で、歴史にドラマティックさやストーリー性を求めるあまり、廃藩置県などの動きにはどちらかといえば無頓着だった私。だからこそ我が地元・千葉県の行政区域の変遷などは興味があり、この展覧会は待ち望んでいた題材であった。
 長い徳川幕府の世から、突如明治政府が日本の実権を握り、1年どころか数ヶ月単位で行政区分が目まぐるしく変化していく。自身が居を構える地域を管轄する者が変わり、ボーダーや所属自治体も次々に書き換えられ…当時の我が先祖はどのように対応していたのかと、出来の悪い子孫は今更ながら心配になってしまう。
 現在の世界もかなり混迷を極めているが、インターネット等で情報が常に取得出来る現代で似たような状況が起きたらと思うと背筋が凍る。その対応を考えただけで、150年以上経った日本に住む私は憂鬱になってしまう。

 律令国の制度では安房・上総・下総に別れていた千葉県。有力大名が存在せず、大藩が置かれなかった彼の地は、小藩が乱立していた。江戸の隣という事もあって、天領地も多かったようだ。境界線が複雑に混在する、モザイクのような土地。
 大政奉還直後、天領地は新政府に没収され、そこに新たに県や府が設置される。ただし藩はそのまま残っているので、新政府の管轄と旧藩の支配が混在しており、行政区分もバラバラだった。更に飛び地(遠隔地にある領地)の管理もあり、かなりこの時期はカオスな状況だったと考えられる。

 

 天領が多かったという事は、それだけ新政府が融通を利かせられる空き地があるという事でもあった。
 江戸幕府が倒れ、徳川宗家はかつての本拠地であった静岡に藩を興す。そうなると困ってしまうのは、元々駿河遠江にあった七藩。代替地が必要になった彼らに、天領が多かった房総地方が受け皿として用意されたという事だ。他にも、下野や長瀞(現在の山形県)からもこちらに転封。都合よく利用された我が故郷だが、日本各地から様々な人材が集っているのは面白い。決まり文句のように「千葉県民は愛郷心が薄い」などと語られてきたが、こうした明治以降の激動の歴史がその風説の根底となっているのかもしれない…と一考する余地はある。
 現在の芝山町・松尾町は、静岡県掛川から移った藩士達が居を構えた場所らしい。いつかこの辺りの史跡も訪ねてみたいところだ。

 

 やがて、明治4年7月の廃藩置県により26県が誕生。

 この時点でも千葉県はまだ生まれていない。この後僅か4ヶ月で(同年11月)これらが3県に統合される…恐ろしいスピードだ。今だったら、役所や行政機関の業務対応がまるで追い付きそうにない。
 房総半島は木更津県、北西部(及び茨城県南西部)印旛県、北東部(及び茨城県南東部)は新治県に所属する事になったが、新治県はまさしく(現在では蔑称としてしか使用されない)チバラギ」である。県庁は土浦なので、九十九里方面からパスポート申請に行かねばならない場合は面倒だろうな…と余計な事を考えてしまう。

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 鹿島アントラーズは執拗に他県である成田や銚子を実効支配(ホームタウン化)しようとしているが、この新治県を再興しようとしているのだろうか? …などと展示を観ながら下らない事を考えていた。
 木更津県と印旛県が統合し、明治6年6月にようやく千葉県が誕生しても、約2年後まで新治県は取り残されたまま。北東部はこの時代から冷遇されているのではないかと勘ぐってしまう。

 

 一際印象的だったのは明治4年の戸籍法制定による合理的な戸籍編成のための「大区小区制」だ。以下、展覧会の図録から引用する。

 この大区小区制では、第一区、第一大区、一小区など、区の名称はすべて数字で表されました。当時の文書を見ると、「印旛県第○大区○小区○○村」のように、当該町村が印旛県の「第○大区○小区」に属していると読みとることができます。しかし、このあまりにも官製的で画一的にすぎる地域区分は長続きせず、明治11年7月に交付された郡区町村編制法により廃止されました。

 これは千葉県(木更津県・印旛県・新治県)に限らず全国で行われたらしいが、馬鹿な事をしているなと思う。今まで自治的に諸問題に対応してきた地方を否定し、中央から一方的に命令して統率しようとする意図が露骨過ぎる。土地の名前も古代から受け継がれてきた意味のあるものなのに、数字で呼称するというのは引用元通り「あまりにも官製的で画一的にすぎる」としか言いようがない。
 勿論、海外の列強の脅威が迫る中、一刻も早く新国家の体制を固めなくてはならないわけで、明治政府がスピード化を最優先した事は理解出来る(事実、戸籍編制は結実)。だが、後世からの視点からすれば拙速に過ぎたと思える。

 

 公文書が克明に記した、藩制から県制への流れ。じっくり見たとはいえ、それを1度鑑賞しただけで大体把握出来てしまう。ほぼ資料を参照する事もなく、この時の記憶のみでこの文章を書いているのが何よりの証拠だ(名称等や年月日はさすがに引用したが)。まこと的確な展示だったと評価するしかない。

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 しっかりした作りの図録も無料で配布されており、充実した時間を過ごさせてもらった。

 

 この文書館のツイッター公式アカウントは貴重な資料を折に触れ公開しており、眺めているだけでも興味深い。

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 次の企画展は未定のようだが、何か開催されるような事があれば訪れたい。

 

 

 

 

【追記】

 JR大網駅を訪れた際、こんな看板の存在に気付いた。

 今までも何度か見た記憶はあるが、今回の展覧会でようやく自分の中でこの史跡の存在に焦点が合った。日常的に利用する駅ではなく、たまに訪れても大抵時間の制約があるケースばかりだが(とても徒歩で往復4kmの道のりを行き来する余裕はない)、いずれ訪れてみたいと思う。