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Attack of the Dohkan's

 以前、当ブログでも繰り返し取り上げた太田道灌の足跡。

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 今までは彼がその名を歴史に刻み付けた「江古田・沼袋原の合戦」の本陣、及び敵方である豊島氏に対する追撃戦の史跡を巡りました。
 この度機会があり、合戦のメインの戦場跡を訪れる事が出来たので、簡単に報告します。

 

  元々、源頼朝登場以前からの源氏の家人だった豊島氏。その歴史は平安時代まで遡り、前九年の役保元の乱にも源氏方として参戦したというから驚き。
 石橋山の戦い以後に従った千葉、上総といった武将の比ではなく、まさにナチュラル・ボーン・御家人。源氏再興を期して挙兵した頼朝に重用されるのも当然でしょう。その勢力を室町時代まで維持し、武蔵野の支配と開発を一手に担っていたとの事。

 その豊島氏が古河公方足利成氏に、道灌擁する太田氏が関東管領の上杉氏に付き、それぞれが対立した事で乱が勃発する事になります。

 練馬城周辺に放火した道灌に対し、全軍で迎え撃つ豊島氏。その激突の舞台がこの江古田原でした。

 道灌は予めこの合戦場近辺に兵を忍ばせ、挑発を繰り返しながら豊島軍を戦いやすい(相手方に地の利の少ない)平場に誘き寄せる。その策は奏功し、道灌は大勝。豊島氏は居城の石神井城に敗走し、最期の時を迎える事となります。

 

 徳川家康以前の江戸、武蔵国の趨勢を決定的に変える事となったこの合戦。

 その後、力を持ちすぎた事で主人の上杉氏に疎まれ、道灌自身も討たれるという結末を迎えてしまう。この合戦で争った両者とも、ハッピーエンドは訪れなかったわけです。

 

 現在、この古戦場碑は哲学堂公園という憩いの場に置いてあります。

 かなり広い敷地。交通工事関係の方が、ベンチでスポーツ新聞を広げながら休んでおられました。

 

 すぐ側を流れる妙正寺川の流れも、なかなか雰囲気があります。都内の川らしく、特有の臭いがありますが。

 古戦場碑の背後には江古田川との合流地点があり、治水施設もかなり大がかりなもの。どちらの川も大きなカーブを描いており、それこそ太田道灌の時代よりも前から氾濫が頻繁に起こっていたであろう事は容易に想像出来ます。すぐ傍に整地碑が置かれていたのにも納得。

 

 夏らしく、碑に止まる蝉の姿も。

 実は、ここに来るのも一苦労でした。いずれ、改めて顛末をブログに記します。