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泣く子も黙る ゲンジ大放送

 多忙ゆえになかなかブログで取り上げるような出来事もなく、能動的にアクションを起こさねば記事にするようなトピックが何もありません。

micalaud.hatenablog.com

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 江古田を訪れた際、太田道灌の史跡を訪れたのもそういった事情から。結果的にこの時は2つも記事を書く事が出来、好都合でした。
 今回も出先で面白そうな史跡を検索し、目に留まった2ヶ所を紹介します。

 

 空海ほどではないが、各地にその伝説を残している源頼朝。日本初の武家政権の棟梁であり、一度は宿敵に敗北し逃亡生活を強いられた点が日本人の琴線に触れるのでしょうか。少なくとも実際に訪れた事のある南関東の1都2県は、例え眉唾物の伝承でも史跡を量産出来そうな環境。

 タイムリーな話題でもあり、鎌倉や神奈川県ではない場所で鎌倉幕府関連の史跡を探してみるのが私らしいと思っておりました。今回、お誂え向きの史跡を近場で見つける事が出来たわけです。

 

 

頼朝公御手植の松

 

 最初は、以前紹介した事もある井草八幡宮

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 この記事を書いた際には気付かず、あれから何度か社の前を通過しているものの、詳しい事は全く知りませんでした。

 

 ここに、頼朝が自ら植えたという松の木があります。

 奥州藤原氏征伐に向かう際、戦勝祈願のためにこの井草八幡宮へと立ち寄った頼朝。その結果、見事奥州平定を成し遂げた彼は、それに報いるために雌雄2本の松を自らの手で植え、奉献したというもの。

 

 以上は境内の説明看板からの引用ですが、「征伐」だの「平定」だの、物は言いようだなという感が否めません。しかしこれも戦勝した側からの視点なのだから、こう書かざるを得ないのですが。

 以前もブログで書きましたが、神仏への対応は今とは全く比較にならない程重要視されていた時代。

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 畏れ多くも源氏の棟梁が、自ら手を汚して松を植え、八幡大神に感謝を捧げる…その行為には大きな意味があったはず。これまた上記記事でも触れましたが、その辺は頼朝もそつなくケアしていた印象です。
 敵方の平家は勿論、同じ源氏の一族どころか血を分けた兄弟すら全て討ち果たし、自らの政権を安定させようと腐心したわけですから、それくらいするのは当然でしょうが。

 

 当初植えられたのは「2本の松」との事でしたが、雌松(赤松)は明治時代に枯れ、雄松(黒松)も昭和時代に強風で真っ二つに割けた後朽ち果てた模様。

 そのような事情から、現在の松は二代目であり、頼朝が直接植えたものではないとの事。

 鶴岡八幡宮の大銀杏といい、樹木が歴史の証人として往時のまま生き続けるというのもなかなか難しい。
 初代の黒松倒壊は昭和47年1月の出来事だったようですが、「ミスター井草」こと田中裕二(昭和40年生まれ)の記憶の中には残っているのでしょうか? 彼の生地はここから少し離れた西武新宿線都立家政駅の近辺らしいので、きっと「覚えてないよ、そんなの」と目を黒いビー玉のようにして言うだけでしょうが。

 


 さらにこの近辺に、頼朝関連の史跡がもう1ヶ所存在する模様。

 

 

遅野井の滝

 

 この湧水地は、何とその頼朝自身が開いたとの事。ここは、その湧き出し口を滝の形で復元したもの。よって、かなり創作が加わっているという事になります。

 前述の井草八幡宮参拝後、見事奥州で藤原氏を討ち果たした頼朝軍。だがこの地に凱旋した際は折悪く干ばつの最中。慣れぬ土地での合戦で疲れ果てた一行に、渇水という更なる追い討ちが襲いかかってきたらしい。

 

 以下は、説明看板よりの引用。

 頼朝は弁財天に祈り、自ら弓で地面を7か所掘った。軍勢は乾きのあまり水が湧き出るのが遅い、遅の井と言った。
 その時、忽然として7か所に水が湧きだし、軍勢は乾きを癒した。

 よくある伝説の類いですが、こういった逸話が残されている事実こそが頼朝の神格性を物語っているように思います。こんなに都合良く話が進むわけもなく、お話の一つとして記憶に留めておけば十分だと思いますが、「水が湧き出るのが遅い」のくだりは妙にリアリティがありますね。一片の真実がここに含まれているのかもしれません。
 対話の機会を与えてもらえずに追われた義経や、騙し討ちされて滅ぼされた藤原氏の怒りが干ばつに繋がったのではないか? と意地悪な見方もしてしまいますが、だからこそ頼朝は江ノ島弁財天をこの地に歓請して善福寺弁財天を創建したのだろう、という話にも繋がってきます。
 さすが、攻め滅ぼした者達へのケアは欠かさないマメな征夷大将軍・頼朝。ただしこの場合のケアは、自らに災厄が降りかかるのを防ぐという意味ですが。

 

 しかし、この湧水のある善福寺公園太田道灌絡みで名前は何度も目にしていましたが、思った以上に池も広く、本格的な自然公園で驚きました。

 まさかこんな場所にこれほどの自然があるとは…という驚きがあります。石神井公園に匹敵するのではないでしょうか。

 都心にも近く、緑多い土地。杉並区や武蔵野市の人気がよくわかります。

 

 善福寺池(上の池)と遅の井の滝(湧水地)の水が、この歩道を境にはっきりと色が違うのが面白い。

 余裕があればすぐ近くにあるカフェに寄り、頼朝がこの地でどのような言葉を口にしていたかに思いを馳せたかったところですが…。

 暑さとタイムリミットという2つの要素に追いたてられ、私も先を急ぐ事となります。