From Houki to Reiwa
忘れ去られようとしている図書館に別れを告げ、次の目的地へ。
友人(yuz氏)の案内で、別の神社に向かいました。
名前だけは、路線バスのアナウンス等で何度も聞いていたこの社。
訪れるのは今回が初めてであり、その理由は車でないととても行けない距離にあるからです。意外に広いこの街、この地域は私も車ですら通過経験のない(隣接市町村へのメインルートからは大きく外れているため)、完全に未踏の地でした。
空海伝説の残る公孫樹。
この街には別の地にも空海に因んだ逸話のある場所があり、本当にこんな僻地まで訪れていたのならば、彼の諸国行脚のハードさに驚くばかりです。
神社に参拝する前に、社の裏にある古墳に登ってみる。
ここに眠る主を祭った祠でしょうか。
写真ではわかりませんが、前方後円墳です。
まだこの地が内海だった頃に築かれたもので、近辺の有力首長が眠っているとか。千葉県が低地である理由がよくわかる話ですが、この古墳から海を臨めていたのかと思うと、現在の姿しか知らない私はなかなかイメージし辛いものがあります。
神社に戻る。風格のある木です。
この地は、坂上田村麻呂が蝦夷征討に向かう際に参拝したとの事。空海と違ってこちらは奉納した太鼓が残っているので確実なようです。
先程の古墳も参拝したらしい征夷大将軍。
大和朝廷の征討に対し、同じく中央の勢力に従わざるを得なかったであろう古墳の主は、果たしてどのような想いを抱いたのでしょうか。
yuz氏が「その石碑には悲しい事が書いてあるよ」というので、詳しく碑文を読んでみる。
境内を今の形に整備した際に寄付をした人々の名前、その経緯が表裏に記されているのですが、問題は両サイドにあるスペース。修復・整備作業の際に起きた金銭トラブルの一部始終が詳細に記されており、生々しい事この上なし。
記念碑に記さねばならないほど関係者にとっては重大な事件だったのでしょうが、果たしてこの説明は必要なのでしょうか? この街としてはかなり大きな規模の由緒ある神社であるにも関わらず。これを読んで良いイメージを抱く人は少ないと思います。Google Mapでもそういった旨の評価がありました。
問題に関わっていない人間が言うべき事ではないかもしれませんが、一般の参詣者に複雑な想いを抱かせるような行為は避けるべきだと思います。私も、前文を読んで居た堪れない気分になりました。
規模の大きさは、社務所の造りに大して感じる所も大きいです。
恐らく、これだけの社務所が存在する神社は、この街には無いのではないかと思われます。
戸が閉まっており、人の気配はないので常駐はしていないようです。
ただし、境内を掃いている方はおられました。近所の方のボランティアではなく、確証はありませんが関係者の方だと思われます。
鳥居の前にすぐ道路が走っており、正面から撮るのはなかなか危険です。
この道路が出来る前は、参道も存在したのでしょうか。駐車場も備わっているようですが、少なくとも我々はそれがどこにあるのかわかりませんでした。
この街からすれば大きな規模の神社、そして古墳。殆ど訪れた事のない地区の風景。何やら別の市町村に来たようで非常に不思議な気分であり、この街の総面積の広さをこんな所で実感します。
中学生の頃は友人達と無意味に自転車で走り回り、未踏の地を開拓していく事を楽しんでいましたが、それでもこの辺りまで来た事はありません。アップダウンが激しく、あまりにも遠いのがその原因です。
この歳になって、立て続けに生まれ育った地の未知の部分を知る。なかなか興味深い体験である事は間違いありません。同時に、やはり私のメインの移動手段である徒歩には限界があると痛感。車でなければ、午前中に出発したとしても往復だけで日が暮れてしまうでしょう。やはり田舎は車社会です。
勝手知ったる土地、その未知の領域に踏み出した際の形容し難い感情。それは、この日最後の訪問地によって最も強く昂る事となります。