(Revenge of the) United Minds

Talkin' 'bout Music, Football(JEF United Chiba) and More.

spiritual sounds to SpiSun: New Era Edition Box

 今年のTM Networkのアニバーサリー・イベントで十数年ぶりに再会した我がバンドのヴォーカリスト(以下「北条」と記す)。長いブランクを埋めるための会話の中で彼から出された要望は、我々、つまりspiritual sounds ~ SpiSunのオリジナル曲の数々を音声ファイル化してほしいという事だった。
 spiritual soundsは、結成当初は独立した存在だったものの、バンドが結成されてからはバンド内ユニットのような形となり(私も相棒のジョニー馬論もそのバンドのメンバーだったため)、バンドで演奏されるオリジナル曲は自然と我々がspiritual soundsとして制作したものとなった。
 その後バンドの解散と共に再び独立したユニットに戻るわけだが、北条からすれば我々が制作した音源はあくまで「バンドのためのデモテープ」であり、作品として制作していた我々とは意識にギャップがあったものの、それはそれで彼がバンドの事を活動母体として真剣に考えていた意味でもあり、私に悪い感情はない。ある意味で、彼が一番バンドの事を大事にしていた人物かもしれないのだ。

 

 実は2009年にカセットテープやMDの音源からアナログな形(MTRに繋いでトランスファー)で全音源をCD化しているわけだが、せっかくの機会だからリマスター、及びマルチトラックデータが存在するものはリミックスを行おうと思い、丸々2週間を費やして作業を行っていた。

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 元の音源が稚拙な録音環境によって制作されたものであり、音圧を挙げるとノイズも強化されてしまい、途中で投げ出しかけたが、妥協しつつ何とか作業を終わらせた。完璧ではないが、機材がもう少し揃えばその時にまたベストなものに近付けられればいい。

 

 実は、SpiSun名義では最初で最後の作品であり、現在でも我々の最新作である『Technicolour』は、spiritual sounds結成20周年のタイミングでリマスター&リミックスを行っており、こっそりブログ記事にもして告知している。

micalaud.hatenablog.com

 ブログを通じて最も多くの人に聴いてもらった(正確には配布した)作品ではあるが、ミックスを完全に失敗しており、ずっと悔いが残ったままだったのがその理由である。
 ミックス自体が拙かったせいもあるが、根本的に機材の使い方を間違えていたのも災いした。特にゲスト・ヴォーカルで女性を迎えた楽曲は特にそれが顕著で、今でも申し訳ない事をしたと思っている。また機会があればこのリミックス版を改めて彼女に渡したいのだが、もはや連絡を取る手段もない。心残りは継続中だ。

 

 この作品は、私にとってはリベンジとして意気込んだ作品であった。

blog.goo.ne.jp

 spiritual soundsとして開設したブログにおいて、初めて作品告知をしたのがこのひとつ前の作品である『Sketch』。当時の勤務先は百戦錬磨の音楽事情通が揃っており、ネット上で告知をした事もあって同僚の多くにこの作品を求められた。

blog.goo.ne.jp

 同じフロアで働いていた、少し年下なれど音響方面に絶対的な知識を持っていた同僚も同様だった。彼はフュージョン分野のベースでプロのフィールドを覗き、たまに聞かせてくれるギターも明らかに私よりテクニカルだった。その能力を武器に、今では一流音響メーカーに社員として請われたという話だ。
 人伝に聞いた話ではあるが、彼は我々の作品を一聴するなり自分の車内に放置し、後輩に「俺はいらないから、欲しければ持っていきなよ」と言い放つくらいぞんざいに扱っていたらしい。その(少し意地悪な)後輩本人から聞いた話である。
 プロ志向の友人から頼まれてマスタリングなども忙しくこなしていた彼の技量からすれば、我々の音楽の完成度など児戯に等しかったのであろう。MTRのマスタリング機能ですべてを賄っていた(賄わざるを得なかった)環境の貧弱さ、無知さもあるが、それ以上に作品の出来自体が彼にとっては話にならないレベルだったに違いない。

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 私自身、この録音時期は気管支炎を患っていて声が出なかったり、定期的に訪れる作曲のスランプの時期ではあったが、そんな小手先の問題ではないだろう。ともかく、彼のような専門的人材からすれば興味が惹かれないものだったというだけの話だ。ただし、私としては好きな曲もある作品なのだが。

 

 そんな苦い経験もあったお陰で、私としては「見返してやる、振り向かせてやる」と多いに意気込んだのが『Technicolour』という作品だった。もはや相棒のジョニー馬論は私の作品に労力を割く余裕はなく、私の曲は2曲しか収録されなかったが(しかも1曲は女性ヴォーカル)、それでも当時自分の持てるパワーはすべて注ぎ込んだという自負はある。

 ただし、既に私はその職場を退職した後で、彼とはすっかり疎遠になっていた。我々のブログを彼が読んでいるはずもなく。結局彼にはこの作品を聴かせることは出来なかった。
 聴いてもらったところで、恐らく評価はさして変わらなかったであろう事も十分にわかっている。だが、そういった感情は大きな創作へのモチベーションになるし、自身を成長させている実感がある。もはや伝える術もないが、今回の作業を通して、改めて彼への感謝の気持ちが湧いてきた。

 自分で言うのも何だが、女性に歌ってもらった曲はジョニー馬論のアレンジ、かつてのバンドのもう1人のギタリストの歌詞と相まって、自分が作った曲の中では最も名刺代わりになるパワーを持った楽曲になったと想う。ある意味で、私が所属していたバンドの総力を結集して作った曲とも言う事が出来る(関わっていない北条には申し訳ないが)。
 古くからの友人が自宅を現在改造しており、スタジオ化して友人を招きライヴなどを開催したいと希望を語っているが、そこに上がる許可がもらえるのならば、この曲を是非披露したいという漠然としたビジョンを持っている。

 

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Forgotten Library

 友人(yuz氏)から、歴史があるようなのに余り取り上げられない図書館を発見した、との連絡を受け、時間を見つけて行ってみる事に。

 平日の夕方までしか開館していないという、かなりスケジュールを組むのが難しい所であり、私も彼に教えてもらうまで存在すら知りませんでした。

 

 かつての名士の名残を感じさせる、広い敷地と堂々たる門を抜けると、そこには農家の様式の大きな母屋が。現在管理している方に許可を取るために挨拶に伺ったのですが、平日の昼間に突如表れた若者風(実際は若者ではないが、その土地からすればそう受け取れるファッション)の男2人を、かなり訝しがっておられるようでした。当たり前の反応だとは思いますが。

 

 その方が鍵を開けて通して下さったのが、この建物。

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  中には映像機器やソフトも置かれており、利用者の痕跡を感じさせます。

 展示されていた書簡の数々。

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 色々質問を聞いて頂いたのですが、どうも私の質問内容は頓珍漢なものだったようです。

  というのも、この図書館開設の礎となったこの土地の名士と、ここで紹介されている人物は別人のよう。どちらも肖像画や展示物があった上、特に但し書きもなかったので、完全に勘違いしてしまいました。

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 ここで紹介されているのは歌人であり、この歌集は全国に散らばった門人達の末裔や子孫の方々から現在でも届けられるそうです。

 

 yuz氏が一通り撮影を終えた所でお礼を言い、一旦この館を退出。ここで更なる誤解に気付きます。先ほど案内して頂いた場所は件の図書館ではなく、あくまでその歌人の記念館という事。最初に看板を見ていたのに、全く理解出来ていませんでした。映像機器等や、実際に蔵書も置いてあった事が、私の勘違いを生んだ理由だと思われます。

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  肝心の図書館はこっち。風格のある建物です。

 地元の藩が明治維新を迎えた際、藩主の嫡男の指南役も勤めたという儒学者の蔵書を公開するために、これまたこの地で活動した俳人(先程の記念館のメインたる歌人とは別人)が開設したのがこの図書館だという。

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  当時の若者達が分不相応で華美な暮らしを好んだ事を諌めるために学びの場を作ったという事ですが、明治の戦勝で浮かれていたのでしょうか。大国に勝った(上手く交渉をまとめて逃げ切った)とはいえ賠償金は殆ど取れず、経済的に国が疲弊していた時期のはずなのですが。

 先ほどの方にこちらを開けるお願いをするわけにはいかず、こっそり中を覗いてみる。

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  綺麗に整えられているとはいえ、何年も人が入った形跡はありません。

 こういった造りの新しいドアなどを見る限り、最近まで地元の人に開放されていたような印象を受けるのですが。

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  少なくとも現在では、この扉が開錠される気配はありません。 

 この記事を書きながら検索してみたところ、この図書館は館長不在により閉館されたという記述も見かけました。

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  案内して下さった方も「管理している方が不在」と仰っていたので、閉館という情報は真実なのかもしれません。

 現在は財団法人が管理しているようですが、やる気と時間があって常駐出来る人物が志願しない限り、このまま扉は閉じられたままなのでしょう。かなり難しい問題だと思われます。

 先述の開館時間に関しても、恐らく図書館の方ではなく、記念館の方のスケジュールである可能性が高いのではないでしょうか。だから、ここにお住まいの方も案内したのは後者だった。今この記事を書きながら、合点がいっている次第です。

 恐らく、広く多くの人物が押し寄せるような事態は、管理されている方からはあまり望んでおられないのだと思われます。よって、地名や館名は全て伏せました。

 

 近所には神社が。

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 車馬を境内に乗り入れるな、という注意書きがあり、なかなか味わい深い。

 近所の方に挨拶しながら鳥居をくぐる。

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 大きなポールがあったので、祭りも行われているのでしょうか。大木が多く、鎮守の森というほどではありませんが良いシチュエーション。

 御祭神は、何と国産みで有名なイザナギイザナミ。個人的には初めてこの神々を祭った神社を訪れました。

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 創建は西暦797年。調べてみたら坂上田村麻呂征夷大将軍に任命された年でした。この後、ちょうど蝦夷の話がyuz氏との会話で議題に挙がるわけですが、偶然とはいえなかなか良く出来た話です。

 

 この日は一通り写真を撮った後、次の目的地に向かいました。

21st. Apr. 1994

 小学生時代からあれほど愛したTMNTM Network)が“プロジェクト終了”を発表した際、大きなショックを受けたのは確かですが、同時に予測されていた結末がいよいよ来たか、という感覚もありました。

 1991年の『Expo』(その後リリースされた「Wild Heaven」はこのアルバムの没曲)とそれに伴う長期ツアー以降、パーマネントな活動を行っていなかったTMNの3人は、それぞれソロ活動に移行。3年近くまとまった音源のリリースがなかった状況で、活動再開の噂も耳にはしていたとはいえ(当時「1994年にニューシングルと10周年記念アルバム発表か?」という記事は幾つか目撃)、かつてのような熱意と野心で次の展望を見せてくれそうな気配を感じる事は困難でした。

 この“終了”を知らせる新聞広告は、「当初の予定通りTMNプロジェクトを終了」という重々しい文言で始まります。全てはデビュー当初からの規定事項であった、と種明かしする事で、常にコンセプチュアルなユニットだった彼らの面目を保ったかのような演出を行ったのでしょう。

 しかし、熱狂的FANKS(TM Networkのファンを指す通称)であった私でもその設定には懐疑的でした。10周年記念のリリースの噂があった事、それらしい結末がある事をメンバーが仄めかすような事もなかった事、なによりグループ名をTM NetworkからTMNへと“リニューアル”してから明らかに活動が鈍っていた事。これらを振り返ると、どうしても後付けの設定としか受け取れなかったのが正直なところ。

 あれからTMに関する在野の論者の推論や、時と共に明かされていった内幕。それを知った今となっては、小室氏がtrfのブレイク(「Ez Do Dance」)の機を逃さず、自らのプロデュース業への転身を華々しく飾りたいがためのTMN終了であった、という事を今の私は知っているわけです。そのために、宇都宮・木根両氏を振り回してまで強引に決定してしまった事も。周囲に自らを「小室」と呼ばせる(名前が同じため)ほど心酔していた当時の私さえ、彼のこういったエゴイスティックな面は受け入れがたいものがありました。

 

 TMN終了ライブには、二つの苦い思い出があります。

 一つは、直前でライブ行きを断念しなければならなかった事。親の了解が得られなかったためで、責任は私にありますがとても悔しい記憶です。
 友人が安くはないチケットを取っているのにドタキャンする、この事の重大性を親もわかっていなかったと思うのですが、少なくとも高校生の子供にこの決定を覆す力はありません。無断でライブ行きを強行しようにも、私の故郷はあまりにも水道橋へは遠すぎた。
 東京隣県の千葉県出身という事で故郷の陸の孤島ぶりが人に伝わりにくい事が多く、度々誤解が生まれてこちらが困惑する事が多いのですが、主要駅である隣街のJR駅までバスで片道1時間、運賃は1000円近く必要になるという僻地(現在はこの問題も解消されているが)。親の協力なくして上京するなど、夢のまた夢です。2019年の今なら他に手段もあったかもしれませんが、あの当時は手の打ちようがありませんでした。

 TMを仲間達に紹介し、音楽的にも中心メンバー気取りだった私が、TM最後の瞬間を見届けられなくなったという現実。さすがにライブ当日には様々な想いが去来し、呆然としている所を親に叱責された事を覚えています。

 もう一つは、このライブをきっかけとする、とある人物との人間関係の終焉。今考えれば必然だったようにも思いますが、傷は傷として今でも心に残っています。

 

 ラストライブに行けなかった事で、すぐに頭を切り替える事を迫られました。TMは終わり、3人はそれぞれの道へと進んだ。全く共感出来なかった小室氏のプロデュース業を追う必要もないし、自分も新たな方向へと歩み出すべきだ、と。

micalaud.hatenablog.com 以前もブログに書きましたが、TMN終了は私にとっての「Childhood’s End」だったのです。最期の瞬間を見届けられなかった事は残念でしたが、ドライに判断する事を強いられたお陰でショックを引きずらずに済みました。

 

 そもそも、最後のライブである『Last Groove』には不満もありました。

 まずサウンド。リードギタリストが2人呼ばれているため、どうしてもギター中心のサウンドになってしまう。誤解のないように書いておきますが、北島健二氏も葛城哲哉氏も私は好きなギタリストだし、このライブでもそのテクニックを思う存分見せ付けてくれました。
 だがその分、メンバーである木根氏の影は薄くなる。元々リズムギターがライヴで与えられた彼の役割なのですが、それでも過去のライブではソロの見せ場が用意されたり、得意とするカッティングやアコースティックギターの音が前面にフィーチャーされる場面がありました。
 重厚すぎるディストーションギターの音が、私には最後の祝祭感を盛り上げるというよりは、メンバーの1人を蔑ろにしているように感じられたのです。

 もう一つは、ライブアレンジがされず、ほぼ原曲通りの編曲で演奏された事。勿論最後のベストヒットライブなので余計なアレンジは必要なかったのかもしれませんが、TMのライブといえば原曲とは大幅に様変わりさせてしまうほどの猛烈なアレンジが魅力であり、売りの一つだったと思っています。それがなかった事で、余計に「終了」を意識させられました。
 今となっては、プランの変更によって行われた「終了プロジェクト」のスケジュールの都合上で、ライブアレンジを小室氏が手掛ける時間がなかった事(“終了”直後に仕掛けるtrf篠原涼子作品の準備で多忙だった)、そのために各ミュージシャンの演奏技量に頼る割合が大幅に増えた事は理解しており、こういった形になった事は唯一の最適解だったのでしょう。

 しかし、当時の私はそこまでの裏事情は知らなかった。自分がその場にいられなかった悔しさというよりは、以上の理由で積極的にこのライブの関連商品を買う気にはなれませんでした。

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 友人が予約してくれた高額なボックス(今考えると良心的な価格だが)『Groove Gear』は付き合いで購入したものの、ベスト3枚『Black』『Red』『Blue』は未だに持っていません。レア曲1曲のためにベスト盤に割くお金がなかったのは勿論ですが、前述通り私も次に進みたかったのだと思います。
 この年の夏に、無理をして聴いていたHR/HMを追うのもやめ、楽器関連の雑誌も殆ど手に取らなくなりました。

micalaud.hatenablog.com

micalaud.hatenablog.com

 この事は以前記事にした通り。秋からはPet Shop BoysAztec Cameraを聴き始め、翌年末にはThe Beatlesのアンソロジー・プロジェクトが待っていました。本格的な洋楽への誘いが、年の後半には始まったのです(ちゃんと聴き始めるのは上京後だが)。

 

 TM終了と共に、高校卒業後まで友人達とは疎遠になりました。ここから暗黒の高校時代が深化し、大学受験へ向けて悩みの日々が続いていく事になります。気の合う仲間とTMの音楽を聴いて無邪気に歌っていた時代は去り、少しずつではありますが現実との格闘が始まるのです。

 烏滸がましいようですが、それはTMの3人にとっても同じだったのかもしれません。
時代の寵児となり栄華を極めた小室氏ですが、TKブームは5~6年で終了。かつての名声を取り戻そうと手を尽くしますが、結果としてそれは2009年のあの事件へと繋がっていきます。
 宇都宮・木根両氏もメジャーシーンでの売り上げは著しく低下。未だに自分達の手で地道に活動を継続している彼らを私は大いにリスペクトしていますが、音楽界におけるプレゼンスの面で意地悪な見方をする人は多いでしょう。

 どちらの音楽人生が正解なのか、私にはわかりません。しかし全員が音楽業界に残ったという事実は、1999年のTM復活、そしてその後の断続的な活動の礎になりました。
 小室氏の事情に左右される、私からすればストレスの溜まる活動続きでしたが、30周年記念とアルバム『Quit30』を基幹とする一連の活動は、ようやく終了前のようなアグレッシブで印象深いものとなり、TM健在を見せ付けてくれ、とても嬉しくなりました(アルバムの出来自体はともかく)。ようやく、本気のTMが帰ってきたのだと実感出来る活動でした。

 

 何度も書いていますが、私にとっての音楽の原点がThe BeatlesTM Networkです。これは自分史に残る事実であり、この先も変えようがありません。

amass.jp

www.110107.com

 そんな彼らの記念すべきデビュー35周年のアニバーサリーを、あの頃の仲間やFANKSの方々と過ごせたのは幸せな体験でした。何故私が彼らを愛したのか、改めて再確認する作業でもありました。

 これで終わりではなく、願わくば続きがある事を祈りつつ。35周年、おめでとうございます。

Three Men Standing

 衝撃のニュースだった。2日前にその演技を見た人が、突然逮捕されたのだから。

www.huffingtonpost.jp

 音楽界以上にサブカル界激震といったまさかの逮捕劇で、相棒である卓球氏がほぼ休む事なくツイッター上で話題を提供し続けている事もあり、1ヶ月経った今でも全くその余波が収まる気配を見せない。
 あくまでツイッターをチラ見した印象でしかないが、ネット世代のユーザー達の意見は「瀧は薬物の被害者! 旧態依然としたマスコミと卑劣なマトリにNoを!」というような方向で固まっているように思える。
 私は逮捕を知った際、このようなツイートをした。

 これは、彼が関わった多くの人々がこの直後から対応に追われ、事態収拾に心を砕かなければならないであろう事、そして現在進行形で多数のドラマ・映画・ゲーム等に出演していた瀧氏自身が今後負うであろう賠償金。どちらも決して軽いもので収まるとは思えず、両者の立場を慮ると心穏やかではいられなかった、そういった意味で「ショック」だと書いた。
 もはや、瀧氏は電気グルーヴのメンバーの一人というだけではない。演技を重ねるごとに評価を上げ、様々なタイプの脚本で必要とされるようになった俳優でもある。そしてそれは、ミュージシャンとしてだけ活動していた頃より、多くの責任を負うものになってしまっている。
 例えば、私がよく知る『VOXXX』あたりまでの頃に起こった事件ならば、卓球氏(それ以前ならばまりん氏も)やキューン関係者だけへの迷惑で済んでいたかもしれないが、もう時代は変わってしまった。
 個人的には、ピエール瀧という人物に悪いイメージはない。卓球氏の無軌道な話題に迷わず付いていける頭の回転の速さや、「富士山」「ポパイポパイ」などで見せたライターとしての個性、そしてついこないだまでハリマヤ足袋の親父役として堪能していた演技力など、とても魅力的な人物である事は間違いない。しかし繰り返しになるが、彼の世界は電気の活動に専念していた頃より遥かに広がっているのである。
 今後の動向を注視したいと思う。

 

 

jefunited.co.jp

 ちばぎんカップにて、エスナイデル体制の初陣を観た時の衝撃は忘れられない。サッカーを観ていてあそこまで驚いたのは近年では稀。
 前線から猛烈なプレスで相手を追い、最終ラインをハーフウェイラインを超えるくらいに上げて攻め続けるという先鋭的すぎる戦術。案の定、その試合では浅すぎるラインの裏を突かれて敗戦したが、同時に心の中では快哉を叫んでもいた。
 J2降格後、ポゼッションサッカーを志向しボールを保持する時間を増やしたジェフ。だが引いてくる相手が多い事もあり、攻めあぐねている間に鋭いカウンターを食らって負けるケースばかり。綺麗にパスが繋がれば良いのだが、実際には漫然としたパス回しで観ていても退屈な事が多く、はっきり言ってこの手のサッカーには飽き飽きしていた。
 そんな数年間を過ごしたからこそ、エスナイデル監督のサッカーには期待させるものがあった。長らく続くJ2での停滞を、この極端な戦術で吹き飛ばしてくれるのではないかと。
 しかし現実は甘くなく、初年度こそ終盤の劇的な連勝で昇格プレーオフへの滑り込みを成功させたものの、2年目以降は大量失点の連続。浅いラインでお行うギャンブルめいた守備のオーガナイズは最後まで為される事はなく、遂に解任という結果へと行き着いてしまう。

 元々、違約金を問題として今シーズンもエスナイデル監督の継続が決まったわけで、ここで江尻コーチの昇格以外の選択肢がなかった事は容易に理解出来る。昨年の最終節、千葉市内のラーメン屋にて名も知らぬジェフサポーターの方々と「次はユン・ジョンファンが良いですね」などと言葉を交わした事もあったが、それが現実的に厳しい状況であることは百も承知だった。

jefunited.co.jp 江尻氏は、J2降格初年度以来の再就任となる。指導者として成長したであろう「初代ミスター・ジェフ」の指揮を、ともかく支持するだけだ。

 

hochi.news 携帯電話へのニュース通知で知った訃報。この時が訪れてしまったか、という感。
 大学に入るまではビジーフォーの物真似か、ほりのぶゆき作品でネタにされていた事くらいしか裕也氏に対しての知識がなかった私だが、熱っぽく彼の事を語る友人によりイメージも刷新されていった。
 厄介なおじさんではあったが、自らの行動によって全てを変えていく人という印象がある。とにかく自分が率先して動く。ヒット曲がなかったり、裕也氏名義でのリーダーアルバムが殆どない事で音楽的成果がないと断じるむきもあるものの、その才はむしろプロデューサーとして活かされたように思う。それは音楽でも映画でも同様だ。

blogos.com

natalie.mu

realsound.jp

 印象的なエピソードは幾つもあるが、一番忘れられないのがローラと対面した時の事。
 「ハーフタレントゆえの奔放で無礼な物言いが売りのローラに、怒りっぽく頑固なロックンローラーをぶつけたらどうなるか?」という制作側の意図があまりにも露骨な企画で、私は一部始終を見たわけではない。それでも、かなりのインパクトある記憶として私の中に残っている。
 ローラと対面した裕也氏、挨拶を交わす前に突如人差し指を振りかざしながら、こう歌い始めた。
バングラ・デシュ! バングラ・デシュ!」
 勿論、ジョージ・ハリスンバングラ・デシュ」の一節である。
 ローラの祖国がバングラデシュバングラデシュといえばジョージ→だから歌う、というビートルズにリスペクトを捧げ続けた裕也氏の単純な連想ゲームなのだろうが、もしかするとこんな思いも込められていたのではないか、と勝手に深読みしてしまう。
「忘れるな! お前の母国バングラデシュのためにビートルズのメンバーが立ち上がった事を俺はOBOETEIRU!!」
 NYWRFの志は、誰かが受け継ぐのだろうか。今はただ合掌するのみ。Rock'n'Roll!

数多のダイヤ まとわせながら 女を激しく踊る

 我がバンドの元ベーシストにして、私の古い友人が誘ってくれるという嬉しい出来事があり、『シティーハンター 新宿Private Eyes』を観ました。

 

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「(Just Like)Starting Over」のアウトロに出てくる謎の呟き

 ある時期、高円寺をよく訪れていた。

 これといって特別な思い入れがあったわけではなかった。彼の地に向かう理由があったから、それだけの話である。

 

 元々は我がバンドのヴォーカリストの付き合いでいくつかのバンドのライヴに行ったのが最初の記憶だ。インディー界では名の知れたバンドの演奏を何回か観たはずだが、どれも詳細な内容は忘却の彼方である。

 いつかのライヴ後、演奏を終えた女性ヴォーカリストと音楽の話をした事だけは覚えているのだが…「今モンドが流行ってるらしいけど、どういうの聴けばいいかわかる?」と問われ、無知故にさしたる回答も出来なかった。そして今同じ質問をされても、同じように何も答えられないだろう…。

 

 高円寺に通うようになるのはその数年後。これまた友人がきっかけである。私をWWEへと誘った友人が、同団体のフィギュアやアパレルを買うために行きつけにしていたのがこの街だったのだ。

 彼に付き添ってこの街を訪れるうち、この街にはWWEだけでなくSWのグッズを売る店もあり(ただし、この時点ではまだ専門店であるStar Caseの存在を知らなかった)、更に駅前にはいくつか中古レコード店がある事にも気付いた。

 時はちょうど自分の中のビートルズ再発見が起こっていた頃。ジョージのDark Horse時代のアルバムが全て廃盤だと知り、中古品での収集を思い立った(それまでは律儀に様々な店に注文を試みていた)のとタイミングは一緒だった。

 SWやWWEのグッズに加え、私からすればレアなレコードの数々が同時に手に入る便利な街。そういった利便性の面から、高円寺という街を重宝していただけの話である。

 

 当時ジョージのDark Horse時代のアルバムは入手困難で、CDは殆ど見かけなかったし、たまに入荷しても手が出せるような値段ではなかった。アナログ盤ですら中古市場でも必ず置いてあるという程の数は出回っておらず、そのためにはこまめにチェックする必要があった。新品でジョージのCDが容易に入手出来、中古市場にも多数出回っている現在とはその状況に大きな隔たりがある。

 CDの方が欲しいのは当然だが、気軽に買えるようなものではない。それよりは安価なアナログ盤を探し、当時同居していた妹が所有していたプレーヤーからカセットなりMDにダビングして聴いていた。音質的にはクオリティを望むべくもないが、ヒスノイズと共に聞こえてくるジョージ印の歌声とギターに大いに興奮した。とてもピュアな音楽体験のひとつであり、幸せな思い出だ。あれほど心を躍らせながら音楽を聴く事が、果たして今後もあるのだろうか?

 そんな体験をさせてくれた店のうち、大きな役割を果たしてくれたのがこの高円寺のRAREである。正確には覚えていないのだが、『33 ⅓』から『Gone Troppo』の4枚のアナログ盤のいくつかはここで買ったものではなかったか。

 少なくとも、このラッキーな遭遇を果たしたのは間違いなくこの店だ。 

 

 そんなRARE高円寺店が、この度長い歴史に幕を下ろすという。

 ジョージのDark Horseボックスが発売され、WWEの地上波放送が打ち切られてからはこの街に通う意義が希薄なものとなってしまった。それ以上に自身が多忙となり、世界も広がったせいで、高円寺を訪れる理由はStar Case以外に見出しにくくなったのである(ちなみに、『People vs. George Lucas』をレイトショーで観に行ったのはここの店長氏が薦めてくれたから。感謝)。

 

 そんな不義理を重ね続けた私だからこそ、最後の姿を目に焼き付けたいと思った。

 当時の独り高円寺巡りの定番コースは、フィギュア店を2軒巡回→RAREをチェック→隣の元祖仲屋むげん堂(インド雑貨店)を冷やかす→牛丼太郎で納豆丼を食って次の目的地へ、というものだった。既にフィギュア店がどちらも閉じた事は確認済みだし、牛丼太郎は閉店どころか会社が無くなってしまった。ここから更にRAREが消えるわけである。あの時代の自分を育んでくれたこの街に敬意を示し、数年ぶりに高円寺へと降り立つ事を決定。十数年ぶりの入店を果たす事となる

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 Star Caseのために来訪した際もこちらは訪れないので本当に久し振りだが、この店を含むガード下は殆ど変わっていない。何だかホッとした。

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 閉店半額セールが開始されてから数日経過しているからだろうか、特にこれといった掘り出し物はない。前述の記憶から、記念として何か所有していないジョージのアナログ盤を買おうと思っていたのだが、あったのは「美しき人生」(「What is Life」日本盤)のみ。それどころか、The Beatlesのソロはジョンとポールだけでジョージのコーナー自体が消えていた。当時は設置されていた記憶があるのだが…何とも寂しい限り。

 

 この日購入したもの。

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 何とかジョージ絡みのものを、という事で彼の参加作品であるDaryl Hall and John Oates『Along the Red Ledge』を買った。当時貪るように読み耽ったジョージのデータ本の数々に、必ずジャケットが掲載されていたアルバムだ。かなりの妥協ではあるが、一応は関連作品であるという事で自分を納得させる。

 MadnessとThe Good-Byeのアナログシングルが収穫といえば収穫だろうか。私がこの店に通っている頃は、Madnessはまだ本格的に追い掛けていなかったし、The Good-Byeに至っては存在すら知らなかった。

 今の私はレコード盤を再生するプレーヤーがないし、金銭的・収納的な問題を考えてもアナログを購入しようという意欲は極めて低い。コレクター的な欲が無いのも、以前このブログに書いた通り。

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 だが、The Good-Byeやジョージのアナログシングルは今後中古レコード店に入る機会があればチェックくらいはしてみようと思う。

 店主の方と言葉を交わす事もなく先を急いでしまったが、こうして記念として心に残る買い物が出来た事は良かった。今まで本当にありがとうございました。

 

 帰り道、中野までの徒歩行で通りかかったフィギュア店の跡。

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 どちらも2階にあったテナントだったが、当然現存はしていない。左に至っては建物自体が放置されている感じで悲しみを誘う。ちなみに、牛丼太郎高円寺店は日高屋に変わっていた(私の記憶が間違っていなければ)。

 この日は寄らなかったが、私の高円寺巡り定番コースの唯一の生き残り、元祖仲屋むげん堂はインド歌謡を流しながら元気に営業中。用事を見つけたので、今年中に再訪したいと思っている。