(Revenge of the) United Minds

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My Name is Jacques (𣝣)

 先月に源氏関連の史跡を訪れた際、私好みのマニアックな展覧会が行われている事を知ったのだが、惜しくも体調不良で断念。
 ブログ記事になりそうな近辺の史跡を探していたところ、三鷹森鴎外の墓地がある事を知り、墓参する事にした。

 

 最近この駅でもたまに降車するが、実際に街を歩いたのは10年程度前まで遡らなければならない。

 画家の友人L(仮名)が彼の地で展覧会を行う事となり、私は最も親しかった相棒のS(仮名)と訪れたのであった。だが、SはLのアート仲間である女性彫刻家に興味津々。絵や彫刻そっちのけで「L君、あの人と付き合っちゃえばいいのにね」という話題に終始し、私を内心呆れさせたのであった。
 異性、そして恋愛が話題の殆どを占めていた当時のSだが、そういった女子力の高い(言うまでもないが、彼は私と同い年の男性である)会話はとても私には真似出来ないものだ。そうやって彼は私など比較にならないくらいのコミュニケーション能力で交遊関係を広げていたのであり、ウイルス禍関係なく自主隔離生活を続ける私がどうこう評論する資格はない。それも彼の魅力なのである。とはいえ、当時はかなり唖然としながら無理矢理話を合わせていたのも事実だが….。
 今のところ森鴎外とは一切関係のない話をしているが、駅前に立った際にこの記憶が甦ってしまった。

 森鴎外は、卒論のテーマの50%を占める重要な作家だった。純文学の類いに殆ど造詣がなかった私に、ゼミの教授が「そんなに日本史が好きなら、歴史小説をテーマにすればいい。それなら森鴎外を題材に加えなさい」と、苦肉の策として提案してくれたものだ。

 当然、私はこの時まで意識して鴎外の作品を読んだことがなかった。日本文学評論の大家であった教授からは「君はどうして日本文学科に入ったんだい?」「僕のゼミには、自分の好きな作家と心中したいとまで思い詰めている人ばかりなんだよ?」とかなり厳しい指摘を受けたが、今考えればそれも当然だと思う。
 「自分の文章能力を磨きたくて入りました」と正直に答えたものの、日本文学を学ぶという事はそういう目的では行わないものなのだ。これに関してもかなり辛辣な意見をもらったが、それも今となっては反論の予知などない。
 今考えれば、こういった教授とのやり取りは貴重なものだったと痛感している。遅ればせながら、自分が文学よりも史学が好きなのだと気付いたのはこの時であった。あまりに遅すぎるが、気付けないまま生きていくよりもずっと良い。

 

 鴎外とは、そういったほろ苦くも貴重な体験をさせてくれた重要な作家だった、そう考えれば、墓参は遅すぎたくらいだ。

 現在、鴎外はこの禅林寺に眠っている。セレモニーホールとしての利用も多いようで、駐車場や斎場の案内が至る所に置いてあった。

 

 テーマが決まってからは、毎日浴びるように鴎外を中心に歴史小説を読み漁った。引用のために明確に見付けなければならないポイントが存在し、タイムリミットもあるので必死だった。

 読みながら寝てしまう事もあり、今は亡き実家の祖父に起こされたのを昨日の事のように思い出す。

 

 しっかり墓所の案内もある。

 だが、ちゃんと場所を示している事に気付いたのは、今こうして写真を参照してからだ。来訪時には完全にチェックを怠っており、この後墓所内をさまよう事となる。

 

 それほど注意力散漫だったのは、時間に限りがあったからだ。

 隣駅に自転車を停めており、長い時間をここで過ごすわけにはいかなかった。この禅林寺も駅から少し距離があるので、帰りの時間も考えればゆっくり滞在するわけにはいかないのだ。

 

 Google Mapの写真のみを便りに、位置関係を推測しながらやっと辿り着いた。シンプルに「森林太郎」とのみ表記された墓石には、俗世の栄誉を全て捨て、一個人として眠りたいという意思を感じる。

 雑草が繁っており、少し物悲しさも感じた。

 

 墓前には、雨露に晒された岩波書店の文庫本が供えられていた。

 帰って調べてみると、木下杢太郎のデビュー作『南蛮寺門前 和泉屋染物店』であった。鴎外同様に医学の道を志した事から、彼に助言を求め、その心情を深く理解し、やがて鴎外研究の第一人者としても知られるようになった人物。
 あえて鴎外本人の作品でなく、そんな杢太郎の作品を供えるとは気が利いているし、粋だなと思った。わかっているファンの仕業だろう。これも何かのきっかけだと思い、私もこの作品を読んでみようと思った。

 

 ちなみに、鴎外の墓の向かいには太宰のものもあったらしい。

 先ほどの案内板を参照すれば苦もなく辿り着けたわけだが、それに気付けないほど気が急いていたので今回は発見出来ずに帰路に着いた。鴎外を敬愛していた太宰のたっての希望で、この位置で眠っているらしい。いずれまた、この地を訪れることもあるだろう。
 ちなみに、鴎外の墓は移転してきたためか、特にこれといってこの寺ではイベントを行っていないらしい。太宰を偲ぶものは彼の誕生日に行われているらしいが、これは仕方ないないところか。
 余談だが、我が文学の師である前述の教授は太宰治を嫌悪しており、「太宰で卒論が書きたいならよそのゼミへ行ってくれ」とまで言っていた。抽象的な文章に終始したハルキストの生徒の卒論発表もかなり厳しく意図を追及しており、文学的志向は一貫しているように思える。

 

 鴎外の遺言が、石碑として置かれている。

 口述筆記で綴られた文章は、浮き世のしがらみから解放されたような、余計な装飾のない清々しいものだ。

 晩年の鴎外は白飯に饅頭を半分割って乗せ、その上から茶をかけた「饅頭茶漬け」をこよなく愛していたらしい。とあるドラマでも鴎外役の伊武雅刀が実際に食していたが、個人的にはあまり食べたいとは思えない料理である…。

 

 卒論は、『阿倍一族』から「殉死」というテーマを見出だし、他作品との共通点を挙げながら一気に書き上げる事が出来た。

 教授やOBが容赦ない指摘をしてくるゼミ発表に、毎回戦々恐々としていた私。しかもグループで発表する普段の内容と違い、卒論発表は1人で臨まなくてはならない。恐らく今までの人生の中でもトップクラスに緊張したイベントであったが、普段は超辛口なOBが「良いね、面白そうじゃん。あんまりこういう内容見た事ないよ。もうこの時点でまとまってるし、何も付け加える事がないね」と褒めてくれたのは、ホッとするやら、どこか拍子抜けするやらであった。
 こういった負荷のかかる体験も、当然人生には必要だと思う。そういった貴重な経験と、今でも鮮明に思い出す事の出来る記憶を得るきっかけを作ってくれた森鴎外には、改めて感謝したい。

 奇しくも、今年は鴎外の生誕160年、かつ没後100年という区切りの年。当然、不勉強な私は全く知らずに今回の墓参を行った。きっと、これも偶然ではないはずだ。