Say Hello to The Good-Bye
きっかけは思い出せないが、間違いなく別の件で何となくツイート検索をしていたのだと思う。
「The Good-Bye」の30年ぶりの新譜アルバム「Special ThanX」の発売が決定しました。https://t.co/hZwO9432zL
— 曾我泰久staff (@sogastaff) 2019年7月11日
ツイートの大河の中から行き着いた曾我氏のツイートには、信じ難い文言が記されていた。
The Good-Byeが、まさかの30年ぶりニューアルバム発売。リリース日発表から1ヶ月近くが経過していたが、ひとまず発売日の前に知る事が出来た。特にここ10年、こういった驚くべき情報をかなり時間が経ってから知って後悔する事ばかりなので、今回はしっかり間に合った事に自分でも驚いている。まるで引き寄せられたかのようだ。
実は、新作発表は青天の霹靂と言う程には唐突なニュースではなかった。2013年に加賀氏が旅立った直後、野村氏が自身の公式サイトで制作を明言していたのである。
あとね、アルバムを作ります。
僕らの予定通りに”The Good-Bye”の10枚目のアルバムは作ります。
でも、すみません。 曲が作れないんです。
バンドでデビューして30年。どんな時でも色々なイメージが湧いて来て、それを形にしてメンバー、そしてスタッフ、完成した物をファンのみんなへ。
今も曲作り中です。
それが僕の仕事ですから。
でも”The Good-Bye”の曲が作れないんです。
戦ってます。
自分と戦ってます。
バンドと戦ってます。
しかしこの発言から既に6年。引用した文中でもわかる通り、個人ではなくバンドとしての曲作りにかなり苦戦している事がストレートに綴られていた。2013年の30周年記念ライヴが「最後になるかもしれ」ないという発言も含め、加賀氏との永遠の別離だけが原因でない苦悩がありありと伝わってきた。
だからこそ、今回の発表には心底驚いた。ニューアルバム発売の報自体が衝撃的だったのではない。制作開始から数年の時を超え、歩みは速くなくとも本当に10枚目の新作完成を実現させた3人に驚嘆したのだ。
野村氏の懊悩煩悶の日々も、見事こうして音盤に結実したわけである。ライヴに対するネガティヴな発言もどこへやら、無事に35周年ライヴが決まっている。
THE GOOD BYE 35th ANNIVERSARY CONCERT TOUR 決定!
しかも、新作発売直後のギグなのだから、“レコ発ライヴ”という意味合いも帯びてくる。これは間違いなく解散前の現役活動中以来の事であろう。
私がファンになった2004年のリマスター再発から早15年、まさかこんな日が来るとは思わなかった。
この手の大事な情報を取り逃がしがちな私ですが、今回は偶然のツイート検索から知る事が出来ました。残念ながらライヴは行けませんが、こちらは即予約済み。私にとってのThe Good-Byeの“ハジニュー”(初めてリアルタイムで触れるニューアルバム)、期待してます。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年8月10日
既にツイッターで触れた通り、新作『Special ThanX』は私にとってThe Good-Byeの“ハジニュー”となる。
これが更新される日が来るとは。良くも悪くも人生はわからない。
気になるのは収録曲だが、野村‐曾我コンビのものが中心になるのは当然としても、“もう一人の男”のペンによる作品も録音していてほしいと思った。彼らがリスペクトを隠そうとしないThe Beatles同様に、看板ツートップ以外のメンバーの楽曲も作品中において重要な役割を占めてきた。それがバンドの特色でもあったのだ。
勿論、その人物はこの世を去ってしまったのだから書下ろしというわけにはいかないが、バンド解散後に書いた曲や、それこそデモの形で遺されたものをバンドとして完成させてほしいと図々しくも考えたのだ。
だが前述の通り野村氏の苦悩も知っていたから、そこまでの余裕はないのだろうと心のどこかで理解してもいた。新作が出るだけで十分、そう自分を納得させもしていたのだが…。
収録曲がユニバーサル(ビクターでないのが驚き)の公式サイトで発表され、私の瑣末な想いも氷解した。やはり4人でThe Good-Byeである、と残されたメンバーが力強く宣言しているかのようであった。タイトルのせいでクリックしていなかったこの記事でも、このトピックは紹介されていたようだ。
加賀さんが12年ごろに作曲して残していたメロディーに野村が歌詞を付けた「Blue」など、書き下ろしの新曲10曲を収録する。レコーディングは、野村が加賀さんの愛用ベースを演奏して行った。
夫人の池沢理美氏がデモテープを蔵出しし、メンバーに託したのであろうか? ますます『Special ThanX』が手元に届くのが楽しみになってきた。
『レコスケ君』の作者であり、ジョージ(・ハリスン)ファン&The Good-Byeファンの偉大なる先輩である本秀康氏も、かなり盛り上ってきているようだ。
このあいだ、「グッバイの新譜送るよ」と久々にやっちんから電話があって、久々すぎてしどろもどろになってしまい「買うからいらない」の一点張りの意味不明な対応をしてしまい、電話を切って落ち込んだ。ザ・グッバイ30年ぶりの新譜『Special ThanX』、心から楽しみだ!
— 本秀康 (@motomotohide) 2019年8月16日
ザ・グッバイ『Revolution No.9』は超名盤!LPはない。 pic.twitter.com/DpvE8HALT0
— 本秀康 (@motomotohide) 2019年8月16日
別のビートルズネタを元にしながら偶然4色が揃った、RYUTisとThe Good-Bye pic.twitter.com/F5tfIlyMtw
— 本秀康 (@motomotohide) 2019年8月16日
個人的に来週は少々立て込んでいるので、発売日に受け取るのは恐らく難しいと思うが(そもそもちゃんと日付通りに届くとも思えない)、いずれにせよその時をじっと待つのみである。
今回この記事を書くにあたり、過去の作品やネット上にアップされている動画のチェックを行っていたところ、当ブログ開設当初に書いた記事に重大なミスが生じている事に気付き、追記を行った事も報告する。
ファン失格と言っていいほどの由々しき見落としだが、6年越しでようやく間違いに気付けたわけだ。今後も放置され続けるよりは良かったと思いたい。これも新作リリースというサプライズのお陰である。スペシャル・サンクス。
Mr. Dohkan's Office
昨年、今川氏ゆかりの観泉寺を訪れた時の事。
Google Mapで周囲を検索しながら散歩していたのですが、この際に気になる名前の施設がありました。
「道灌公園」 。名前からして太田道灌に関係がある公園なのでしょうが、この時はチェックする事が出来ず。あれから1年以上が経過しましたが、この度機会があったので訪れてみる事に。
特にこれといって特徴もない、よくある児童公園。
平日なので人気はありません。
足を踏み入れると、案内板があります。
何か命名理由等謂れが書いてあるのかと思いきや、近隣の公園に植えてある植物の案内板で肩透かし。
しかし、確かにここは太田道灌の名を冠された公園である事は間違いない。
杉並区の公式サイトでも、書いてあるのは必要最低限の施設案内のみ。
この公園と何がどう太田道灌と関係があるのか、少なくとも現地に行っただけではさっぱりわかりません。
Google Mapのクチコミでは、肝心の公園としての機能に辛口の評価が多いのですが、この住宅地にこれだけの広さの公園があるのはなかなか羨ましいです。私が住んでいる地域などは、どこを探しても申し訳程度の面積しか備えていない、名目だけ公園とされている場所が多いのですよ。
これだけではわざわざ時間を作った意味がないので、インターネット検索してみると、在野の歴史研究家の方々の研究結果がいくつかヒット。太田道灌が豊島氏と交戦した際、この近辺に陣を敷いたとの事で、この公園の命名理由にも影響を及ぼしているのではないか、という事。
これも確実な答えではないようですが、少なくともこの一帯は昔から「道灌山」と呼称されており。地域に根差したネーミングなのでしょう。
太田道灌が、その名を関東に知らしめる事となったという、「江古田・沼袋原の戦い」。
合戦の勢力が入り組んでいて単純ではないのですが、つまり関東管領・山内上杉氏に反旗を翻した長尾氏に呼応したのが豊島氏で、上杉氏の家臣であり元々豊島氏と緊張状態にあった太田道灌がこの地の覇権を争った、という事らしいです。
「江古田」というワードがあまりにも生活感・戦後東京感が溢れているせいか、日大芸術学部の学生や漫画家達が争っているかのような貧困なイメージを抱いてしまいましたが、時は応仁の乱終息の7ヶ月前、日本全体が戦乱の時代へと雪崩れ込んでいく乱れた時代でした。
そもそも、私は太田道灌の事を「江戸城を築いた人」という事以外、何も知りません。今回この記事を書くにあたっても、さほどその知識に変わりはなかったりします。当時の辺境の地で細々と城を築く事に腐心していたような人物像を勝手に描いていましたが、少し調べただけでも才気迸る武将だった事がわかってきました。
同時に、家臣という立場だった事が、その才を疎んじる者を生み、非業の最期を遂げてしまうという皮肉を生んでしまった事も。
改めて地図を見れば、もうひとつ道灌の名を与えられた公園がすぐ近くにあります。
勿論、こちらも訪れてみました。
道中、広めの公園もありました。上記地図の「上瀬戸公園」です。
さすが杉並区、こういう施設は充実してますね。
「道灌橋公園」にあっという間に到着。
道灌公園と同じ、植物の案内板もあります。
戦いの終盤、石神井城に敗走した豊島氏を更に攻めるため、道灌はこの付近に布陣したという話。
受け売りの知識でしかないので、当たり障りのない事しか書けないのが申し訳ない。
「道灌橋」の由来は、実際にここにあった橋に由来するそう。
それを証明する石碑が、緑道の片隅にぽつんと残されていました。
石碑の裏側も、無理矢理撮影してみる。
「文明九年春よりここに五百年……」という記述が、江古田・沼袋原の戦いの年と一致します。つまり、石神井城攻略戦のために道灌によって架けられた臨時的な橋だったという事なのでしょうね(今回、自分で導き出した歴史的推測はここだけ)。
元々ここは井草川という川が流れており、現在は暗渠化されているようです。
この散歩道が、その流れに沿ったものなのでしょう。
太田道灌、今回初めてこのような形でその史跡に触れてみました。今までまともに調べた事もなく、自分の無知ぶりを実感しましたが、その生涯の痕跡が身近にあるからこそ興味を惹かれます。
上記の合戦のWikipediaページにも、「招き猫伝説」「照姫伝説」など、ファンタジックで魅力的な伝承がいくつかある事がわかりました。この日はもう一つ、道灌ゆかりの場所を訪れているのですが、今夏中にもう一度この近辺を訪れる用事があるので、その際の成果と共にブログ記事にしたいと思います。
March of Time
図書館、神社と巡ってきたこの日の視察。
最後も友人のyuz氏の案内で訪れた場所だ。
全国的に止まらない少子化の流れ。この街のような人口の少ない自治体では、当然ながらそういった時代の趨勢は押し止められない。
現在ではこの地でも次々と小学校が廃校になっているが、比較的人数の多かった我々の世代が中学に上がった頃から問題は顕著なものとなっていたようだ。当時から生徒の数が少ないとされていた小学校が、どうやら廃校になるらしい…TMNや自身のバンド活動に夢中になっていたあの頃、そんな話を耳にした記憶がある。
そしてその時はやって来た。この街で最初に役目を終えた小学校、その校舎がここに残っている。
現在は映画やドラマのロケなどで使用されているらしい。東京から決して近いとは言い難いが、高速を飛ばせば遠すぎるというわけでもない。何しろ隣県である。そんな立地でこの絶妙なノスタルジックさ。重宝されるのもわかる。
名前だけは小学生時代から何度も聞いていたが、実際に来るのは今回が初めてである。別のサイトでいくつかこの校舎を見かけた事もあるが、いざ本物を目の前にすればやはり印象は全く異なる。
グラウンドが一面だけで、この校舎が教室と講堂と体育館? を兼ねているようだ。限られた敷地面積に、必要最低限の機能をギュッと詰め込んだコンパクトすぎる造り。グラウンドもサッカーのコート1面程度しかない。
我々の幼少時は野球全盛時だったが、ここでプレーしようにも少し大きめの長打やファウルを打ってしまったら、その都度周囲の山や水田にボールを拾いに行く羽目になったであろう。『キャプテン翼』ブームでサッカーもプレー需要があったはずだが(部活もクラブも存在しないので遊びでやる以外の選択肢はなかったが)、クリアーボールやGKのパントキックが逸れたら同じように捜索を強いられたはずだ。
これほど小さい敷地の学校に、自分達が知っている人間も通っていたと思うと改めて驚く他ない。よくTVで取り上げられるような限界集落の分校などではなく、自分が生まれた土地での話なのだから。
散々ブログにも書いてきたが、私が生まれた場所は陸の孤島であり、かなりの田舎である。そこで過ごしてきた私がこういった感情を持つのだから、自分の育った環境とは隔たりがあるのだと思って頂きたい。
私の出身小学校は、我々世代の入学直前に立て替えがされており、現在問題になっている学校の冷房問題も既にあの当時クリアーしていた、今考えれば、かなりの進歩的な新設校舎だった。この街では最も生徒数が多く、私が所属していた地域もこの街では人口が比較的多かったせいもあって、どうしてもそれが基準になってしまう。
この街の他の小学校もさすがにここまで小規模な所がないので、余計に驚きの感情が増してしまうのだ。
年に一度の街の運動会では、小学校対抗のリレーがあったという記憶がある。そこに当然この学校からも代表が出ていたはずだが、所属している生徒はどのような気持ちで結果を聞いていたのだろうか。
私はそこまで親しかったわけではないが、小学生の頃から塾が一緒だった事もあり、顔を見知ったこの学校の卒業生がいた。私よりも彼と仲の良かったスピサンの相棒・ジョニー馬論の仲介で彼の家に遊びに行った事もあるのだが、彼は私の学年ではトップクラスの身体能力を誇り、中学の体育競技会などでも歴代の記録を塗り替える程の活躍を見せていた。
彼が小学生時代にこの街の運動会に出たかどうかは知らないが、あの脚の速さで出場しなかったとも考え難い。もし中学生の頃のように彼が活躍していたら、この小学校ではさながら甲子園にて都会の強豪校相手に勝利を収めた田舎のメンバー数ギリギリの公立校のように熱狂していたのだろうか。
この小学校も、私の出身校も田舎の名も知れぬ学校である事には違いないので、こういった例えもリアリティが見いだせないのが残念。
自分の生まれた街だからこそ、知らない一面を覗くと様々な感情が胸に去来し、どう表現していいかわからなくなる。知っているようで知らない事だらけ、新たに知る事実を受け止めるとたじろぎもするし、違う知識への呼び水になったりする。意外と奥深いものである。しかしながら、それが外の人間を呼べるアピールポイントになるかというと、甚だ疑問ではあるが。
Twitter and the Monkey Man Autumn 2018 & Winter 2019
この期間は、自分としては呟く回数が多かったように思います。何気ないツイートでもそれなりに覚悟して送信ボタンを押しているので、毎日ストレスフリーで連投というわけにはいきませんが。
入れ替わりの激しい所にばかり身を置いてきたので、1年未満の付き合いだとどんどん名前を忘れていってしまいます。私にシールドの巻き方を教えてくれたギタリストとか、フォークシンガーのような長髪のデジタル機材マニアとか、顔だけ覚えているけど名前が思い出せない。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2018年10月7日
それなりに長い人生、私のような人間でも多くの人と出会いと別れを繰り返しているわけで、こういう事も増えてきました。入れ替わりが本当に激しい業界なので尚更です。 顔ははっきり覚えている事が多いんですけどね。
私自身も、印象的な話を聞かせてくれた方(Pファンク等)に完全に存在を忘れられていたという事もあるので、多かれ少なかれ皆同じようなものだと思っています。1年や2年の付き合いだとそういうものなんでしょうかね。こちらは数ヶ月仕事をしただけの方でも、忘れられない方も結構いますが。
「父が拾ってきた彫刻刀を兄弟で使わされた」「修学旅行は私服じゃなく制服で助かった(私服がないから)」「修学旅行に持っていくカメラをねだった際、『確かあったやろ』と押入れを探し始めた父を見ながら『出てくるな、出てくるな』と祈り続けた」と、中川家の成長過程が次々に明らかになるANN。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2018年10月22日
中川家のANN、先週の放送回は徒歩移動中に聴いたが、ローカル放送でよくありそうなCMを創作するコーナーの完成版で表情が緩み、使われていた安っぽいBGM(カウベルを使ったリズムパターンをマシーンで鳴らしただけのもの)を剛が口真似で再現した所でさすがに噴き出してしまった。自室で聴くべきか。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2018年10月22日
野球のシーズンオフ番組として半年限定で始まった「オールナイトニッポン・プレミアム」、ここで中川家が関東のラジオ番組に久々に復帰し(TBSラジオ『ネコ電』以来)、あの頃と変わらぬ兄弟トークを聞かせてくれました。
研ぎ澄まされた人間観察の鋭さと瞬発力、そして阿吽の呼吸。執拗に市井の人々の日常を抉るトークは、中川家ここにありといった内容。非常に楽しませてもらいました。TVでは常に一歩引きがちの兄・剛のスキルが最大限に引き出されるのも、ラジオならではの魅力です。
当初の予定通り、今年の3月で当番組は終了。しかし彼らは昼間の放送「DAYS」へとフィールドを移し、引き続き素晴らしい内容を提供してくれます。この番組は半年などとケチくさい事は言わず、末永く続いて欲しいと願います。
地元スーパーのCDコーナー、ジョージのベスト(『let it Roll』)が残り2枚まで売れていました。この街でも買っていく人がいるのは嬉しい。リンゴのベスト(『 Photograph』)も置いてあったはずだけど、そちらの在庫は未確認です。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2018年12月7日
去年地元のスーパーで買ったHuey Lewis & the Newsのベスト、何か足りないなぁと思ったら「Back in Time」が入ってない。でもこれBTTFのサントラにしか入ってないみたいだ。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年1月2日
地元スーパーのCDコーナー、ジョージのベスト(『Let it Roll』)は残り1枚。これだけこの田舎で買ってくれる人がいたというのがちょっと嬉しい。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年3月3日
地元のスーパーに突如出現したCDコーナー。安いものもいくつかあったので、地元支援の意味も込めて何枚か買ってしまいました。
Bryan FerryのベストとEverything but the Girlの90年代コンピレーションは機会があれば入手したいと思っていたので、ちょうどいいタイミングでした。
大方3ヶ月程度で撤去されると思われていたこのワゴンコーナーですが、今年の4月前まで残るというまさかのロングラン。私のように、忘れた頃に買うような客がいたからでしょうね。
私が木戸の最期のシーンとして思い浮かべるのは、生まれて初めて読んだ学研の歴史漫画の1コマである…と以前ブログで書きましたが、これは史実(伝承)だったのですね。つまり正しい認識だったわけです。侮り難し、『日本の偉人 まんが伝記辞典』! #西郷どん pic.twitter.com/QzFkdvF3Rt
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2018年12月9日
単純な脳なので、街の広告等で錦戸亮を見かける度「おお、従道も頑張っとるな」と思ってしまいます。正月の予期せぬロケ地参り(厄払いで行った寺が数回登場)に始まり、図らずも大河ドラマを堪能してしまった一年でした。色々ご意見あるでしょうが、私は文句を言いながらも楽しめました。 #西郷どん
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2018年12月17日
昨年末、史跡巡りを行った大河ドラマ『西郷どん』。ツイート通り、遥か昔にインプットされていた木戸の最期が、漫画作者の創作でなかった事には大いに興奮しました。
木戸の最期の瞬間、と聞いて真っ先にイメージするのは、未だにこのコマである。いつぞや歴博での木戸孝允展を訪れた際も、勿論この絵が頭の中に浮かんでいた。
上記記事にもこう書いていますが、それから2ヵ月後に大河ドラマで再現されるとは。なかなか楽しい体験でした。
店に入っている間に雪はやんでいました。主治医によれば「感染経路がわからなくてもインフルエンザは潜伏期間があるし、今はB型が流行っているので十分注意しろ」との事。はっきり言って恐怖です。体重は数年前の入院時並みに落ちましたが、こういうダイエット法は勘弁願いたい。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年2月15日
まさかの感染。人生初のインフルエンザA型罹患です。今年は大流行したという話ですが、自分に降りかかる日がこようとは。やはり私にとって1~4月は鬼門です。
症状自体も非常に辛かったのですが、実家に帰っていたのが不幸中の幸い…とも言えないのが辛いところ。処方された薬がすぐに効果を示してくれましたが、(私が原因かどうかはわからないとはいえ)両親もインフルエンザに感染してしまい、完治しないまま家事をこなす羽目に。むしろこちらの方が厳しい状況でした。
もうインフルエンザは懲り懲りです…本当に辛い。お陰で体重は落ちましたが。
スポンサーのヤックス様にて…(しかも値札より安い)。 pic.twitter.com/A74r3FZzMG
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年2月17日
スーパーに対抗して、地元ヤックス様もCDワゴン導入。こちらは1~2ヶ月で撤去されてしまいましたが、安価で意外な掘り出し物があり、興味深いラインナップでした。地元より他店の方が品揃えは良かったように思いますが、そちらでは買い物していません。
ようやくWhite AlbumのDeluxe Editionを購入。想像以上でした。個人的には、リミックス&リマスターでここまで衝撃を受けた事はないかも(聴き慣れた作品だからでしょうが)。ブログ書こうかな。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2018年12月25日
Esher Demoの「Not Guilty」が素晴らしい。何だかんだでThe Beatlesとジョージのソロ、そしてこのデモと3バージョンとも好きです。中学生の頃にブートで聴いた時は、全く理解出来なかった曲だったのに。聴いた事はある音源ですが「Sour Milk Sea」のデモも良いなぁ。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2018年12月25日
記事を書く、といってまだ書いていません。ツイートでも書いている通り、今までで一番衝撃的なリミックス・リマスターだったホワイトアルバム50周年記念盤。劇的に変化したというより、元の音像の新たな解釈を提示してもらったという感じ。
今年は『Abbey Road』も出るという話なので、当然無視は出来ません。 このスタイルで再発してもらえるのなら、期待は高まります。
エスナイデル監督解任の報。解任するなら、何故今年もこの体制で行こうと思ったんでしょうか。確かにこの現状を見るに止むを得ない判断だとは思いますが。結果はともかく、こちらの常識を超える楽しい試合を見せてもらった事には感謝しています。特に就任1年目のサッカーは好きでした。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年3月17日
江尻監督、再び就任。今はともかく応援するのみ。自分も(降格した2009年というよりはJ2初年度の)2010年の頃の気持ちを思い出して日々に臨みたい。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年3月20日
ピエール瀧逮捕、内田裕也逝去と衝撃的な出来事が続いた今年3月。わがジェフユナイテッド千葉も、まさかの裁断が為されました。
エスナイデル政権末期の今年のシーズン初めは、相手に研究された弱点を一切ケアする事無く、ひたすら破滅的なサッカーを繰り広げていた印象です。昨年末のフロントからのメッセージでは、ともかく今シーズンは彼に全てを託す形になると思われていただけに、この決定には驚きました。しかし、さすがにJ3降格が現実的になってきては、動かざるを得なかったのでしょう。
生え抜きの江尻氏が再任し、彼の第二次政権で現在のシーズンを戦い続けているジェフですが、依然として苦境は変わる事無く、下位を彷徨う現状から抜け出す道筋は提示されていません。
今季を耐え忍び、準備万端で来年を迎えれば明るい未来が待っているのか? 残念ながら、現状ではそういったポジティブな要素をイメージするのが難しい。かといってまた来年も監督を代えてリセットするのか。それもまた、夢物語に近い気がしています。世界的名将でなければ困難でしょうし、そもそもそんな人材を招聘するお金は残されていない。クラブとして、かなり危機的状況にあるようにしか思えません。
The Dusk of Skywalker
ツイッターでは一切反応しなかったが、SWEP9の公開日とティザー映像が公開された。
「スター・ウォーズ/ザ・ライズ・オブ・スカイウォーカー(原題)」特報
リアルタイムで何も述べなかった事でお分かり頂けると思うが、少なくとも私にとってはもう諸手を挙げて盛り上がれるような作品ではなくなっているという事だ。もはやEP8がどうこうという問題ではなく、何度も書いている通りディズニー三部作について考えるのが煩わしい。もうどんな結末でもいいので、さっさと終わらせてほしいというだけである。
あれほど愛した作品に対して、複雑な感情が渦巻くようになってしまった。この作品でも、またネット上では世代を乱暴にわけた対立や、守旧派と急進派に二元化された論争が巻き起こるのだろう。もう、自分はそこに加わるのも加えられるのも勘弁願いたい。娯楽に対してそういった感情を抱えるとは、新三部作の頃でも考えもしなかった。SNSが普及したからこその問題なのだろうが。
このリンクの記事によれば、監督のJ.J.も「新世代の話」と強調しているので、EP8の路線から大きく変わらないのではないかと思われる。これにも色々と思うところはあるが、コメントは差し控えたい。
気になるのは、続三部作(EP7~9)後に作られると噂されていた三部作の行方。更に未来の話をEP8の監督が描くと当初は噂されていて、本格的に避けたい作品だったのだが、上記記事によれば、ゲームの『Old Republic』の時系列を描くのでは、との事。
実はこのストーリー、私が当初から映像化を望んでおり、無理にスカイウォーカーの系譜を描かずに、この世界観を映画化する事をEP7の制作発表当時に希望していた。
EP4の3600年前、シス帝国が銀河共和国に仕掛けた大戦を描いた太古の話。ゲームは未プレイのままではあるものの、プロモーション映像には大いに沸き立った。
ルークやアナキンは勿論、ヨーダすらまだ生まれていない時代の話。既存キャラクターの設定や尊厳を破壊する事なく、スターウォーズ・ユニヴァースの中で新たなストーリーや解釈を楽しむ事が出来る。ファンとしては心置きなく作品世界に浸る事が出来る最高の環境なのだが、当時のディズニーはあくまで旧キャストの出演を前提としたノスタルジックな脚本にこだわり、完成したのはEP4をトレースしたようなEP7であった。
諦めていたものを映像化してくれるのならば、話は別だ。もし本当に『Old Republic』の時間軸で映画を作ってくれるのならば、それはもう観るという選択肢以外存在しない。
本当に厳しいファンなら、EP8の時点で現在のルーカス・フィルムから決別しているはずだが、私は甘いのだろう。何だかんだでEP9の結末を見届けるつもりだし、『Old Republic』という餌をぶら下げられて、まんまとそれに食い付こうとしている。ディズニーの思う壺なのだ。
要は、EP8という衝撃があったとはいえ、そう簡単にはこのサーガから逃れられないという事。続三部作でズタズタに傷付けられてしまったとはいえ、それでもどこかでスターウォーズに期待してしまう。それは、『反乱者たち』『ローグワン』『ハン・ソロ』という作品が面白かったのが元凶だ。
『ハン・ソロ』といえば、友人にこの作品が「『映画秘宝』のライター陣から酷評されている」という話を聞き、その号を読ませてもらった。
その論評を総括すれば、「ハンは女のためにコレリアを飛び出すような軟弱野郎ではない」「自分を始末しに来たグリードを躊躇いなく撃ち殺すようなタフガイがこんなに青春を謳歌しているのはおかしい」「もっとハードボイルドなものを期待していた」というのが主だった論調であった。
私ももう少しハードな一面を強調されるかと思っていたのは事実だが、帝国アカデミーを追い出されたような若者が、最初からギャングのように振る舞ったのか。いくらワルぶってはいても、結局は自らの危険を省みずにルークを助け、エンドアで危険なミッションに身を投じる友情に厚い男。創造主たるルーカスが語る通り、ハンは悪人ではないのだ(だからグリードを先に撃たないのが正しい、と言うつもりもないが)。
友人も言っていたが、オールドファンが考える通りハンが冷酷な船乗りだったとして、それが一般視聴者が望む展開であったかどうか。
『グッドフェローズ』に準えるなら、ハンが恋敵をブラスターのグリップでボコボコに殴ったり、借金の取り立てのために相手をサルラックの間近まで吊るして脅したり、モス・アイズリーのバーの一軒を借金のカタに保険金目当てで燃やしたり、独自にスパイス密輸を始めてジャバ・ザ・ハットから破門されたり、スパイス中毒になって帝国のガンシップに追われている幻覚を見たり、最後には保身のために反乱軍の仲間を売ったり…果たしてそんな内容が、スターウォーズに詳しくない観客が求めているものなのかどうか。答えは否、だと思う。
それだけ、それぞれにハン・ソロという人物への思い入れがあり、長年各ファンの中で暖められていた「ハン・ソロ・ザ・ビギニング」があったからこそ、そのギャップに異を唱えたくなったのだろう。その気持ちはよくわかる。
勿論、私も現在ではレジェンズ扱いのスピンオフ等での情報から思い描いていたものと、映画で描かれたハンのヤング・エラが同一でなかったのは確かだ。特にチューイとの邂逅の場面はそれが顕著だった。しかし、長年語られてきたハンの前史の大枠から外れる事なく、新たな解釈で2010年代らしいエッセンスを加えた『ハン・ソロ』は上手く作っていると感じたし、実際大いに楽しんだ。
続三部作の話題もそうだが、これだけ壮大なサーガとなってしまった作品であるだけに、ファンの数だけ解釈や思い入れが違うのだ。ファンではない方からすれば理解不能だろうが、それだけ世界中に影響を与えた映画なのだと理解して頂ければ幸いである。
From Houki to Reiwa
忘れ去られようとしている図書館に別れを告げ、次の目的地へ。
友人(yuz氏)の案内で、別の神社に向かいました。
名前だけは、路線バスのアナウンス等で何度も聞いていたこの社。
訪れるのは今回が初めてであり、その理由は車でないととても行けない距離にあるからです。意外に広いこの街、この地域は私も車ですら通過経験のない(隣接市町村へのメインルートからは大きく外れているため)、完全に未踏の地でした。
空海伝説の残る公孫樹。
この街には別の地にも空海に因んだ逸話のある場所があり、本当にこんな僻地まで訪れていたのならば、彼の諸国行脚のハードさに驚くばかりです。
神社に参拝する前に、社の裏にある古墳に登ってみる。
ここに眠る主を祭った祠でしょうか。
写真ではわかりませんが、前方後円墳です。
まだこの地が内海だった頃に築かれたもので、近辺の有力首長が眠っているとか。千葉県が低地である理由がよくわかる話ですが、この古墳から海を臨めていたのかと思うと、現在の姿しか知らない私はなかなかイメージし辛いものがあります。
神社に戻る。風格のある木です。
この地は、坂上田村麻呂が蝦夷征討に向かう際に参拝したとの事。空海と違ってこちらは奉納した太鼓が残っているので確実なようです。
先程の古墳も参拝したらしい征夷大将軍。
大和朝廷の征討に対し、同じく中央の勢力に従わざるを得なかったであろう古墳の主は、果たしてどのような想いを抱いたのでしょうか。
yuz氏が「その石碑には悲しい事が書いてあるよ」というので、詳しく碑文を読んでみる。
境内を今の形に整備した際に寄付をした人々の名前、その経緯が表裏に記されているのですが、問題は両サイドにあるスペース。修復・整備作業の際に起きた金銭トラブルの一部始終が詳細に記されており、生々しい事この上なし。
記念碑に記さねばならないほど関係者にとっては重大な事件だったのでしょうが、果たしてこの説明は必要なのでしょうか? この街としてはかなり大きな規模の由緒ある神社であるにも関わらず。これを読んで良いイメージを抱く人は少ないと思います。Google Mapでもそういった旨の評価がありました。
問題に関わっていない人間が言うべき事ではないかもしれませんが、一般の参詣者に複雑な想いを抱かせるような行為は避けるべきだと思います。私も、前文を読んで居た堪れない気分になりました。
規模の大きさは、社務所の造りに大して感じる所も大きいです。
恐らく、これだけの社務所が存在する神社は、この街には無いのではないかと思われます。
戸が閉まっており、人の気配はないので常駐はしていないようです。
ただし、境内を掃いている方はおられました。近所の方のボランティアではなく、確証はありませんが関係者の方だと思われます。
鳥居の前にすぐ道路が走っており、正面から撮るのはなかなか危険です。
この道路が出来る前は、参道も存在したのでしょうか。駐車場も備わっているようですが、少なくとも我々はそれがどこにあるのかわかりませんでした。
この街からすれば大きな規模の神社、そして古墳。殆ど訪れた事のない地区の風景。何やら別の市町村に来たようで非常に不思議な気分であり、この街の総面積の広さをこんな所で実感します。
中学生の頃は友人達と無意味に自転車で走り回り、未踏の地を開拓していく事を楽しんでいましたが、それでもこの辺りまで来た事はありません。アップダウンが激しく、あまりにも遠いのがその原因です。
この歳になって、立て続けに生まれ育った地の未知の部分を知る。なかなか興味深い体験である事は間違いありません。同時に、やはり私のメインの移動手段である徒歩には限界があると痛感。車でなければ、午前中に出発したとしても往復だけで日が暮れてしまうでしょう。やはり田舎は車社会です。
勝手知ったる土地、その未知の領域に踏み出した際の形容し難い感情。それは、この日最後の訪問地によって最も強く昂る事となります。
spiritual sounds to SpiSun: New Era Edition Box
今年のTM Networkのアニバーサリー・イベントで十数年ぶりに再会した我がバンドのヴォーカリスト(以下「北条」と記す)。長いブランクを埋めるための会話の中で彼から出された要望は、我々、つまりspiritual sounds ~ SpiSunのオリジナル曲の数々を音声ファイル化してほしいという事だった。
spiritual soundsは、結成当初は独立した存在だったものの、バンドが結成されてからはバンド内ユニットのような形となり(私も相棒のジョニー馬論もそのバンドのメンバーだったため)、バンドで演奏されるオリジナル曲は自然と我々がspiritual soundsとして制作したものとなった。
その後バンドの解散と共に再び独立したユニットに戻るわけだが、北条からすれば我々が制作した音源はあくまで「バンドのためのデモテープ」であり、作品として制作していた我々とは意識にギャップがあったものの、それはそれで彼がバンドの事を活動母体として真剣に考えていた意味でもあり、私に悪い感情はない。ある意味で、彼が一番バンドの事を大事にしていた人物かもしれないのだ。
実は2009年にカセットテープやMDの音源からアナログな形(MTRに繋いでトランスファー)で全音源をCD化しているわけだが、せっかくの機会だからリマスター、及びマルチトラックデータが存在するものはリミックスを行おうと思い、丸々2週間を費やして作業を行っていた。
元の音源が稚拙な録音環境によって制作されたものであり、音圧を挙げるとノイズも強化されてしまい、途中で投げ出しかけたが、妥協しつつ何とか作業を終わらせた。完璧ではないが、機材がもう少し揃えばその時にまたベストなものに近付けられればいい。
実は、SpiSun名義では最初で最後の作品であり、現在でも我々の最新作である『Technicolour』は、spiritual sounds結成20周年のタイミングでリマスター&リミックスを行っており、こっそりブログ記事にもして告知している。
ブログを通じて最も多くの人に聴いてもらった(正確には配布した)作品ではあるが、ミックスを完全に失敗しており、ずっと悔いが残ったままだったのがその理由である。
ミックス自体が拙かったせいもあるが、根本的に機材の使い方を間違えていたのも災いした。特にゲスト・ヴォーカルで女性を迎えた楽曲は特にそれが顕著で、今でも申し訳ない事をしたと思っている。また機会があればこのリミックス版を改めて彼女に渡したいのだが、もはや連絡を取る手段もない。心残りは継続中だ。
この作品は、私にとってはリベンジとして意気込んだ作品であった。
spiritual soundsとして開設したブログにおいて、初めて作品告知をしたのがこのひとつ前の作品である『Sketch』。当時の勤務先は百戦錬磨の音楽事情通が揃っており、ネット上で告知をした事もあって同僚の多くにこの作品を求められた。
同じフロアで働いていた、少し年下なれど音響方面に絶対的な知識を持っていた同僚も同様だった。彼はフュージョン分野のベースでプロのフィールドを覗き、たまに聞かせてくれるギターも明らかに私よりテクニカルだった。その能力を武器に、今では一流音響メーカーに社員として請われたという話だ。
人伝に聞いた話ではあるが、彼は我々の作品を一聴するなり自分の車内に放置し、後輩に「俺はいらないから、欲しければ持っていきなよ」と言い放つくらいぞんざいに扱っていたらしい。その(少し意地悪な)後輩本人から聞いた話である。
プロ志向の友人から頼まれてマスタリングなども忙しくこなしていた彼の技量からすれば、我々の音楽の完成度など児戯に等しかったのであろう。MTRのマスタリング機能ですべてを賄っていた(賄わざるを得なかった)環境の貧弱さ、無知さもあるが、それ以上に作品の出来自体が彼にとっては話にならないレベルだったに違いない。
私自身、この録音時期は気管支炎を患っていて声が出なかったり、定期的に訪れる作曲のスランプの時期ではあったが、そんな小手先の問題ではないだろう。ともかく、彼のような専門的人材からすれば興味が惹かれないものだったというだけの話だ。ただし、私としては好きな曲もある作品なのだが。
そんな苦い経験もあったお陰で、私としては「見返してやる、振り向かせてやる」と多いに意気込んだのが『Technicolour』という作品だった。もはや相棒のジョニー馬論は私の作品に労力を割く余裕はなく、私の曲は2曲しか収録されなかったが(しかも1曲は女性ヴォーカル)、それでも当時自分の持てるパワーはすべて注ぎ込んだという自負はある。
ただし、既に私はその職場を退職した後で、彼とはすっかり疎遠になっていた。我々のブログを彼が読んでいるはずもなく。結局彼にはこの作品を聴かせることは出来なかった。
聴いてもらったところで、恐らく評価はさして変わらなかったであろう事も十分にわかっている。だが、そういった感情は大きな創作へのモチベーションになるし、自身を成長させている実感がある。もはや伝える術もないが、今回の作業を通して、改めて彼への感謝の気持ちが湧いてきた。
自分で言うのも何だが、女性に歌ってもらった曲はジョニー馬論のアレンジ、かつてのバンドのもう1人のギタリストの歌詞と相まって、自分が作った曲の中では最も名刺代わりになるパワーを持った楽曲になったと想う。ある意味で、私が所属していたバンドの総力を結集して作った曲とも言う事が出来る(関わっていない北条には申し訳ないが)。
古くからの友人が自宅を現在改造しており、スタジオ化して友人を招きライヴなどを開催したいと希望を語っているが、そこに上がる許可がもらえるのならば、この曲を是非披露したいという漠然としたビジョンを持っている。
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