Taigamilk
あまりにも取り上げる題材がないので、大河ドラマについて簡単に語ります。
『いだてん』
1940年と同様、もはや幻に終わりそうな東京2020五輪ですが、その盛り上げ役を担い、「こんな内容は朝ドラでやれ」と多くの大河ファンの冷ややかな視線の中でスタートした本作。
その前評判通り、視聴率はスタートから歴史的な低調ぶり。回を追う毎に下降し続け、大河ドラマのワースト視聴率を続々更新しながら、何とか結末を迎えました。戦後がメインの舞台であるというファンタジー要素を受け付けない時代設定、宮藤官九郎というとかく色眼鏡で見られがちな脚本家のイメージ、「視聴率が悪いから見続けている人間は相当な物好き」という悪評が更に悪評を呼ぶ負のスパイラル。どれだけ梃入れしようとも、もはや浮上は不可能だったとしか思えません。
では、私もそのように世間の評判通りこの作品を受け取ったのか。実はその全く逆でした。
過去のクドカン脚本が好みかそうでないかというと、どちらかといえば後者です。時代設定はともかく、彼がどのように戦前・戦中を取り上げるのかは非常に不安が強かったし、特定のスポーツのファンという事で五輪競技全体にどのような視点を向けるのかも疑念が付きまとっていました。
前半の金栗四三編は、初の五輪出場までは臨場感たっぷりに楽しめましたが、その後の失速が酷かった。着々と忍び寄る軍国主義の台頭、世界を蝕む戦乱と共に五輪は中止され、四三は目標を失いますが、ここで視聴者もモチベーションを失った人が多いのではないでしょうか。自分もここで脱落しかけました。五輪中止の後が、箱根駅伝創設ではさすがにスケールダウンも甚だしい。勿論史実通りなので仕方ないのですが、ドラマとしての出来は別です(私がこのイベントを好んでないせいもあるが)。
しかし日本が太平洋戦争へ突入し、田畑政治に主役が交代した辺りから、徐々に流れが変わり始めます。戦争描写のあまりのライトさには正直閉口しましたが、むしろここは戦後に向けエネルギーを蓄える期間だったのかもしれません。
無理矢理落語を物語の進行役に組み込み、志ん生(や五りん)の高座を語り部とする事で著しく流れを削いでいた事も問題点の一つでしたが、彼らをシンプルにナレーターに徹しさせ、田畑の行動や喋りの性急さを激しく流れ始めた時代の激流にリンクさせた戦後編から、この作品の本領がいよいよ発揮されました。梃入れがどの部分だったかまでは私にはわかりませんが、個人的にはこの部分の修正が最も効果的だったと思っています。
東京五輪を戦後復興のメルクマールとし、怒濤の勢いで国も人も時代も車輪を回転させ始める。戦前・戦中に息を殺して生きていた人達が、命を滾らせ自在に自らの能力を世に問うていく。あの高揚感、最終回までの雪崩込むような流れ、そして世界の人々を見事に迎えた大団円。クドカンの脚本という事で斜めに構えて観ていた私も、これには脱帽でした。
どう誤解されても構いません。これは、2010年代最高の大河ドラマだったと私は断言します。
『いだてん』、世間的には嘲笑の対象でしょうがここに来て凄まじい追い上げ。田畑編、特に戦後は時代の高揚感と、それに突き動かされるような登場人物達のバイタリティの描写が素晴らしい。10年代の大河ドラマとしては『軍師官兵衛』に並び、『真田丸』以上かもしれません(個人の感想です)。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年12月2日
#いだてん 、エネルギーに満ち溢れた素晴らしい最終回でした。一人で鑑賞出来て良かったと胸を撫で下ろしています。金栗編の躓きがあったとはいえ、自分の中では10年代の大河ドラマではベストです。来年、また戦国時代を取り上げる事に野暮ったさすら感じる程。正直軽く見てました。素直に謝罪します。 https://t.co/DV82ohUzuq
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年12月21日
終盤にドラマが整理されてソリッドになった印象があるのは、無理に志ん生と五りんによる「五輪噺」という落語の形での進行を挟まず、森山未來のナレーションに集中させたからなんでしょうね(個人の感想)。 #いだてん
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2020年1月3日
勿論、東京五輪辞退の意義や、それが日本にどのような影響を与えたのか、それはドラマの出来とは別に語るべき事であり、私はそれを諸手を挙げて賞賛しているわけではありません。
このドラマに制作前から抱いていたささやかな願いも、全く叶えられませんでした。これは仕方ないですが。
視聴率も評価も低い『いだてん』ですが、今のところ私は楽しんでいます。このまま金栗四三の話を一年間引っ張られても厳しいなぁ、というのも正直な感想ですが。60年代パートに長沼・岡野といったJFAの重鎮が登場する事を少しだけ期待していましたが、どうもその可能性は無さそうですね。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年2月15日
今のところア式蹴球の影も形もないので(描写どころか言及すらされていない)、望むだけ無駄だったという気がしています。岡野俊一郎氏はJOC理事・IOC委員を歴任しているわけですが。近所に岡埜栄泉がある事を最近知りましたが、調べてみると彼の実家の総本家とは直接関係がないようです。 https://t.co/fuPzVewxVG
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2019年9月29日
五輪と関係のない野球は度々話題に挙がりましたが、蹴球のしの字も取り上げられませんでしたね。
いずれにせよ、「歴史的低視聴率」「クドカンのチャラそうな脚本」という印象だけで語られるとしたら、あまりにもったいない作品です。視聴率だけでなく、出演者の度重なるスキャンダルに加え、まさか放映翌年の東京五輪が延期(中止が濃厚だが…)するという凄まじい混乱が起きるとは、さすがに不運にも程がありますが。
『麒麟がくる』
昨年に引き続き、出演者の公開直前でのスキャンダル発覚、そしてウイルス禍での撮影・放映延期とこちらも不運続きの作品。
しかし「初めて大河ドラマを観る事にした」という伊集院光はじめ、私の周囲でも今回は観ている人が多いようです。戦国と幕末のローテーションだ、と揶揄される大河ですが、結局そのどちらかでないと視聴率は取れないのでしょうね。
私自身、明智光秀を主役にした大河はずっと望むところでした。エキセントリックさだけをいたずらに強調するのではなく、捻りなく真っ当に取り上げてほしい、と過去にブログに何度か書いた記憶があります。
『麒麟がくる』、今のところ『おんな城主 直虎』の序盤と同じ感覚です。
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2020年2月24日
よって待ち望んでいた題材ではあったのですが、出来に満足しているかというと、明確にノーであると断じるしかありません。
大河ドラマ自体が空想上の物語である事は十分理解していますが、それを重厚さとセオリーで上手く視聴者を騙してくれるのが魅力の一つだと思っていました。しかし、少々この作品は歴史ファンタジー色が強いように思います。3名のオリジナルキャラクター、駒、望月東庵、伊呂波太夫の存在が自由自在・自由奔放すぎて、さすがに心穏やかに見る事が出来ません。
伊呂波太夫の存在、なんというか(ラノベというよりも)ジュブナイル小説的なファンタジックさがありますね。 #麒麟がくる
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2020年10月31日
伊呂波太夫、駒、望月東庵が自由自在。脳裏に「集英社スーパーファンタジー文庫」という懐かしのワードが浮かんできた。 #麒麟がくる
— ミカ・ラウド (@MicaLaud) 2020年11月1日
昔、ライトノベル(当時はジュブナイル小説と呼んでいた)を呼んでいた頃、沖田総司が坂本龍馬達と組んで闇の勢力と戦う話や(黒幕は欧米の秘密結社と結び付いた西郷隆盛)、信長が拾った金髪の小姓が実はタイムスリップしてきた別宇宙の未来人だった、というような小説を楽しんでいた事がありました。今回の大河は、ジャンル的にはそっちに属するのかな、という認識で観る事にしています。当世風に言えば、前述の3人があまりに“チートすぎる”な、という感想です。
濃姫の尻に敷かれっぱなしで、彼女のプランに頼りきりだった信長という新たなイメージを提示している割に、比叡山焼き討ちへの光秀の取り組み方に関しては従来通り、と特に新説を積極的に採用しているようでもありません。
どうせファンタジーにするなら、桶狭間も光秀の手柄にしたり(どうもそうなりそうな匂いを漂わせてはいましたが)、藤吉郎の急激な出世にも駒がフィクサーとして暗躍していた、くらいの超解釈を観てみたかった気もします。
ここまで酷評しているように思われるかもしれませんが、激動の時代のメインストリームに属する人物の物語であり、信長・秀吉・家康という歴史の寵児達が絡んでくるのだから、つまらなくなりようがありません。楽しんで観ている事は確かです
一番楽しみなのが、室町幕府、そして朝廷から見た信長の天下統一への道のりという新鮮な視点。今まではどうしても登場人物の都合から、京都から離れて戦乱のただ中の描写が多かっただけに、ここが一番この作品に期待しているポイントです。
新型ウイルスの感染者はここにきて急増しており、全く予断を許さない状況ではありますが、出演者・スタッフの方々が無事に最後まで完走出来る事を祈っております。