(Revenge of the) United Minds

Talkin' 'bout Music, Football(JEF United Chiba) and More.

Regionalists

 中学時代、アドバイザー的役割で加入した友人のバンドは、主にBOØWYのコピー演奏を行っていた。

(ちなみにバスの中で歌わされたカラオケに関しては、あまり愉快でない思い出がある。本来なら今回はその話をメインにするつもりだったのだが、いざ文章を書き始めたら完全にその事を忘却してしまった)

 

 この決定に対し、私は一切関わっていない。どういうプロセスでこういう方針に至ったのか、未だに謎なのである。当時もメンバーに訊いたのかもしれないが、記憶に残っていないという事は明確な答えは得られなかったのだろう。
 当時の私は、当然ながらBOØWYというバンドの存在すら知らなかった。布袋寅泰はギター雑誌で、氷室京介はいくつかのヒットチューンでいずれ知る事になっていたとは思うが、彼らの過去を辿るほど興味を持っていただろうか? 答えは否であると思う。
 我々の年齢ではフロントマン2人のソロ活動は体験しているが、ボウイに関してはその活動をリアルタイムでは知らない。つまり直撃世代ではないという事である。

 

 では、何故彼らはBOØWYを選んだのだろう。私のように後追いでThe Beatlesコピーバンドを始める人間もいるのだから、そういった形で何らかの出逢いがあったのかもしれない。だが、彼らにその手の衝撃的体験の類があったような話は聞いていない。
 勿論、バンドの楽曲やキャラクターにシンパシーを抱かなければ、わざわざ自分達がコピー演奏する題材として採り上げようとは思わないだろう。それは間違いない。それとは別に、きっかけを与えた何かがあったはずなのである。

 

 それは、地域の先輩の存在なのではないかと思う。何せインターネットやスマートフォンSNSが存在しなかった時代の田舎街である。更にその中心から外れた地域は、近隣の家庭との結び付きが非常に強いのだ。私ですら想像も付かない世界が、そこには存在している。実は昨年、旧い友人と話した際にもそれを痛感したのだが、この話はまたいずれ。
 牧歌的かつ閉鎖的な環境であるから、近所の先輩の存在というのは現代の人々が思うより遙かに絶対的な存在だったのではないか。あのお兄さん達が格好良く演奏しているBOØWYを、きっといつか俺達も…純朴な少年達がそう思うのは、むしろ自然な事かもしれない。

 

 ここまでは、完全に私の推測である。だがそう思う理由は、普段の彼らの嗜好とBOØWY的世界観のギャップ、及びこのバンドのベーシストの存在だった。
 このベーシスト、仮名をTとするが、彼の兄もベースを弾いていたらしい。Tが使っていたフェルナンデスのベースはそのお下がりだったらしく、その兄も、更に年上の誰かからの影響でコピー演奏に励んでいたと聞く。
 寡黙なベース担当者Tは、音楽的にあれもこれもと興味を持つタイプの人間ではなかったように感じた。彼とBOØWY(とPersonz)以外の音楽の話をした事がないのが、そう思う根拠である。あくまで松井常松のダウンピッキングを忠実にコピーする、その事に全精力を傾けている人間だった。このバンドのライブにおけるオーディエンス評は「ベースの人が上手かった」というものが少なくなく、彼の練習の成果は十二分に活かされていたようだ。
 Tの視線の先にあったのは、もしかすると松井常松その人ではなく、兄の弾いていたベースの調べだったのではないかとすら思う。それほど、地域の年長者の影響は濃かったのではないか。そんな風に思ったりするのだ。

 

 このバンドのリーダーはドラマーなのに目立ちたがりで、ステージの配置はドラムを一番前に持ってきたい、などと言っていたのを覚えている。BOØWYや吉川晃司、Complexに関しては彼が、その他の音楽に関しては私が教え合う仲で、友人としてかなり気が合い、お互いの興味の対象を話せる人間だった。だからこそ、私が参加を求められたのだろう。
 彼はバンド時代末期は佐野元春に傾倒。彼の当時の詞作や引用などから推察するに、特に『Café Bohemia』が好みだったよう。当然、当時の私はThe Style Councilなど知るわけがない。もう少し、先に繋がりそうな音楽の話が出来たのかもしれないと思うと、少し残念だ。


 バンドの解散は、元々中学卒業と同時と決められていたようで、最後に記念ライブを行ってからそれぞれの道に進んでいった。リーダーと私は当初からオリジナル曲の制作を大きな活動の柱と考え、互いに詞を書いたり、彼の詞に私が曲を付けたりもしたのだが、結局最後までBOØWYのコピーしか行わなかった。そこから音楽的パートナーとして一歩踏み出せなかった事は、今考えれば惜しかったと思っている。
 勿論、彼らと共に活動していなければ、私が人前で数回演奏する機会はなかった。しかも解散ライブは、男女の同級生が集まり、ステージ上からの風景はなかなか壮観だった。これは間違いなく私が主導したバンドでは難しい事であり、一応は若いバンドマンらしい事を体験させてくれたこのバンドには感謝している。

 

 私がBOØWY…というより、このコピーバンドから受けた影響とは何だろう。改めて考えてみると、自分でもよくわからない。
 まず氷室京介。当時書いていた歌詞はこのバンドのカラーに合わせてヒムロック的な世界観を意識していたが、とても今公開出来るような代物ではない。私自身が組んでいたバンドのキーボーディスト(後に某界隈のDJとして大成)にメロディを付けたデモテープを聞かせたところ、「大丈夫? あっち(コピーバンド)に引きずられてない? なんか色々見失ってるよ」と言われた事を思い出す。当時の記録は大事に残してあるが、永遠に公開される事はないだろう。

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 次に布袋寅泰。一応は私もギタリストなのだから、何かしらの残滓はありそうなのだが…私は基本的にこのバンドでは2ndギター担当だったので、ソロは殆ど弾いていないのであった。オリジナル・メンバーのギタリストが布袋Jr.を気取り、おいしい(というか弾きやすくて目立つ)フレーズを全部奪っていたためだ。お陰で私はアルペジオを弾いた直後に8符刻みをし、なおかつオブリも入れるという隙間を埋めるようなフレージングを求められた。今より更に下手だったので意図した事の20%も出来ていなかったが、これはこれで貴重な体験だったとは思う。

 

 今の世代はわからないが、自分が知る限りBOØWYに影響を受けた音楽愛好者・楽器演奏者は少なくない。そんな人達と、拙いながらも一時コミュニケーションを図る事が出来る。それがもしかすると一番の収穫なのではないか。
 上京後、不動産屋の兄さんと物件に向かう車中、BOØWYのリズム隊に付いて話し合った事がある。彼は私が松井常松高橋まことの名を出した途端、「えっ、お客さん詳しいですね!」と喜色満面の顔で熱っぽく語り出した事が忘れられない。それだけ人の記憶に残り続けるBOØWYという存在は、間違いなくレジェンドなのだ。

 残念ながら、その日紹介してもらった部屋はとても満足のいく物件ではなく、以後彼と会う事はなかったのだが…。