(Revenge of the) United Minds

Talkin' 'bout Music, Football(JEF United Chiba) and More.

Dawn in the sky ahead. As I walk towards it.

 今年の正月に友人と会って地元の話をした際、「体育祭や合唱コンクールのようなイベントで発憤し、周囲にも盲目的な努力を強制するような人間は苦手だ」という話をした。
 誤解されても困るので注釈を付けるが、そういった自分の所属しているチームやクラスがコンペティションを行う事に興奮してしまう人を指して言っているのではない。ただ単にお祭り好きな人もここには含まない。普段、教師に反抗する事で悦に入ったり、自分の思い通りにいかない事の全てに当たり散らしたり、真面目に授業を受けているクラスメイトを妨害するような行為ばかりしている人間が、こういった場合においてのみ「義は我にあり」と高らかに宣言する事に反発を覚えるだけだ。
 勿論、私はどちらのイベントも手は抜いたことがない。あれこれ言われるのは不快だったし、ちゃんと自分の役割は果たしていたつもりだ。同時に、そういった手合を心の中で軽蔑していた。お陰で、(体育祭はともかく)何かの機会で合唱コンクールの話題が出ると、今でも複雑な気分になる。
「おめーら声出せよ、○○(声の小さい気弱なクラスメイト)だって一生懸命声出して頑張ってんだぞオラ!」
 などとその手の輩に叱責されたバンド仲間(私がサポートしていたバンドのリーダーで目立ちながりなドラマー)が、思わず私にこう漏らした事を覚えている。
「『声出せ、声出せ』って、今の世の中にはマイクPAシステム)があるだろ。俺は歌うときにはそれを使うから別にいいんだよ」
「まぁ、別に声の大きさを競う競技じゃないはずなのにな」
 私はそう返したが、彼も私と同じような事を常々考えていたはずだ。

 あくまで私の勝手な想像でしかないが、彼らにとって「普段ははみ出し者だけど、いざという時には自分の所属するコミュニティ=仲間のために先陣を切って頑張る」という設定の下の行動に、格別な感情の昂ぶりがあったのではないか。

 もっとも、どの学年・クラスも似たような選曲になってしまう保守性や、このイベントを中学校の文化祭のメインイベントにしてしまう学校の運営方法など、そういった意味でも合唱コンクールは好みではなかったが。

 

 私の中学時代の途中まで、母校はそういった『ビーバップ・ハイスクール』的な文化の信奉者によって大きく揺れていた。彼らが傍若無人な振る舞いをし、多くの生徒はそれによって心に憂いを抱えた。教師や他校の生徒にも暴力を振るい、それらの出来事によって授業が中断される事すら多々あった。
 そういった文化は、もはや東京では過去のものになりつつある時代だったはず。だが、深夜に改造したバイクを無免許で乗り回し、裾を絞った太い学生ズボンをファッションアイテムとして身に付け、「ムカつく」という身勝手な理由で自分の感情を暴力として発露する。そういった行為に格好良さを見出す生徒は、まだまだ千葉県の田舎では主流だった。
 以前も記事にしたが、それは情報に乏しかった時代と環境、故に身近な年長者に憧れる感情が理由として大きいのではないか。長年の間に形成されてきた文化から逸脱するには相当な覚悟を要した当時の状況が、そういった行為を助長していたのだろう。

micalaud.hatenablog.com

 あくまで私の感覚的なものでしかないが、我がカントリー・タウンでも2000年代初頭までにはようやく趨勢が変化した記憶がある。普及し始めたインターネットにて、そういった文化が嘲笑されていたのと歩調を合わせているが、恐らく関係はないだろう。外に目を向ける若者が増えていったのだと信じたい。昨今は『東京リベンジャーズ』などの作品の影響で、その手のユース・カルチャーがリバイバルの兆しを見せているというネット記事も見かけたが(私は未見の作品なので詳細は不明)。

 

 昨今、「ブラック校則」なるものが話題になっている。

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 小学校を卒業した我々を待っていたのも、戦前・戦中かと見紛う程の理不尽な校則であった。中学生活は、そんな校則の改正に向け生徒達自身がアクションを起こしていた時代でもある。我が母校のヒストリー中でも激動の日々だったのではないかと思う。度々全校生徒や同学年生徒を集めた集会が行われており、私にも少なからず発言の機会があった。当時の校長へ向けて書いた連名での嘆願書が、今でも自室に残っている。
 詳細は覚えていないのだが、中学校卒業間近に何らかの討論会、意見交換会のような場が設けられた。3年間を振り返って学生生活の問題点を指摘したり、実現まで秒読み段階だった校則改正(つまり、我々の学年はその改正の恩恵をほぼ受けられなかった事も意味している)の今後に向けて在校生に託すべきメッセージを議論したり、そんな内容だったのだと思う。
 本当に断片的な記憶しかないのだが、私は進んでこの会でもスピーチを行った。それは確かな事実だ。友人がこの時の事を覚えており、「淀みなく意見を述べていた」と今でも振り返ってくれる。
 覚えているのは、明確な意図を持って発言した事だ。これまで感じていた不満を、努めて感情を抑え、出来る限り整然と述べる。その事に高揚感を覚えていた、という事が確実な記憶として残っている。
 恐らく、「暴力で全てを解決出来ると思わないでほしい」「暴力を好まない生徒にもそれぞれの中学生活がある、それを邪魔する権利はない」「心から3年間の中学生活を楽しめた生徒は殆どいなかったのではないか」というような内容だったと思う。勿論、実質リタイアしていた数名を除き、前述の『ビーバップ~』的文化信奉者達も多数出席してた。3年生全員の参加が求められていたから、当然なのだが。

 

 ディベートは得意ではないが、そういった場で何かを述べるのは好きだった。自分の意見を多くの人に向けて発表する事に、小学生の頃から抵抗がなかったように思う。

 勿論、だからといって見識があるという事とイコールではない。通信簿にも、「知識を披露したがるが、間違いを指摘されると途端に子供っぽく反論する」などと書かれていたくらいだ。実際に子供だったのだから、それくらい大目に見てほしいものだが。

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 閑話休題。そういった私の発言に対し、暴力での報復がある可能性も想定した。だが、件の文化信奉者の中にも友人がいた事(未だに地元で年に数度遭遇して話し込む程度の関係)、卒業間近で私如きにカリカリするとも思えなかった事、何よりこういった場での発言内容に対し(批判の対象となっている行為である)暴力で仕返しする事はさすがに格好悪い事だと認識してくれるであろう事を念頭に置いた上での発言であったはずだ。なかなか自分でもせせこましい計算をしているなと思う。
 ただし、暴力で全てを解決しようとするセルフィッシュさに不満を示したいと思った事だけは、間違いのない事実だ。

 

 規模が違いすぎるし、犠牲者も多く出ている現状と比べる事自体がおかしな話だが、現在の世界情勢で思い出したのがこの1件だった。
 平和を訴え続けても、武器でそれを強引に黙らせようとする一部の者達。そんな身勝手に、何も出来ない無力な私がいる。空しさと、憤りを深く感じている毎日である。
 だが、それでも私の気持ちは変わらない。侵略行為や戦争を絶対に許してはならない。Give peace a chance.


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