(Revenge of the) United Minds

Talkin' 'bout Music, Football(JEF United Chiba) and More.

GOOD, BYE (Can you dig it)

 2004年リマスター版が突如として再プレス、及びその売れ行きの好調さで、デビュー40周年のアニバーサリー・イヤーを前に盛り上がりを見せつつあるThe Good-Bye周辺。

 その流れを更に決定的なものとすべく、バンドのプロデューサーである川原伸司氏がトーク・イベントを約3年ぶりに開催。当然ながら、私も参加した。

 

 

 

目次 

 

今回のレポートを書くにあたって

 前回のイベントは30年ぶりの新作『Special ThanX』発売を記念して行われたもので、今ほど同時配信が盛んでない時期の開催。そのクローズドな場で、とてもインターネット上には乗せられないシークレットなトークが展開された。実際に会場を訪れた人でなければ共有出来ない空間であり、幸運にも私はその空気を十二分に味わう事が出来た。

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 2記事に分けてまで詳細なイベント・レポートを記したのは、その場に参加出来なかったThe Good-Byeファンの先輩方への敬意の現れであり、後追いファンの義務であると思ったからだ。自分で言うのも何だが、決してそれは私の勝手な思い込みではなかったと思っている。このブログが初めて(そして今のところ唯一)誰かの役に立った瞬間であった。

 

 あれから月日は流れ、社会の情勢も大きく変わった。ネガティヴな出来事の連鎖は止まる気配を見せないが、ライヴやイベントが配信されるようになり、会場から離れた場所でもリアルタイムで、もしくは後追いで視聴出来るようになったのは良い変化のひとつではないだろうか。
 今回のトーク・イベントも配信されており、開催後しばらくしても内容を楽しむ事が出来た。つまり、熱心なThe Good-Byeファンの方々は既にイベントの全容を知っておられるはずである。もう私が肩肘張って詳細なレポートを書く必要はないのだ。

 

 加えて、今回は配信として会場にいない人達にも内容が共有されるため、前回のように隠された真実に迫るようなトークは展開出来ない。
 そこで今回は、バンドのリーダーである曾我泰久氏が大活躍。まさかの川原氏との演奏を交えた内容にシフト・チェンジし、また違った魅力を見せてくれたイベントとなった。2人の関係を語るトークが中心の1部、The Good-Bye楽曲の制作過程を探りながらデュオでの演奏が行われた2部という構成。
 個人的には今回を深く感銘を受け、特に2部の内容に多いに感じ入るところがあったのだが、それは私自身の些末な音楽体験と切っても切り離せないものであり、読んで下さる方にはどうしてもノイズにしかならない情報であろう。

 

 そこで今回の記事も2回に分ける事にした。今回は1部の内容を比較的ストレートにレポートし、次回は個人的な感情を多いに盛り込みながら2部の内容に感じた事を記したいと思う。

 

 前回イベントからの繋がり

 諸事情あって、今回は一般席の最後列での鑑賞。私の更に後ろには関係者のご歴々が勢揃いしている。別に何も運営には関わっていないが、私も気持ちだけ関係者気分で着席する。
 角度的に川原氏の顔は見えないが(ステージ奥のピアノを弾く際だけは表情がよくわかった)、曾我氏はほぼ真正面の位置。The Good-Byeファン歴ももうすぐ18年になるが、初めて間近でメンバーを見る事が出来た。
 この席に陣取った事も実は意味のある事だったのだが、それは後述する。

 まずは司会の吉留氏のリードで、川原・曾我両氏の師弟トークから1部がスタート。
 今回のイベントが開催される事になった理由は(冒頭で触れた通り)全オリジナル・アルバム&ベスト盤の再プレスがきっかけであるが、そこに至った理由は前回のイベントも無縁ではないらしい。

 何と彼女は、高額なプレミアが付いている2004年のリマスター盤を買い集めているのだという。しかし、あまりにも入手困難であるため、まだコンプリートには至っていないらしい。自分もこの一連のリマスター再発の価格高騰ぶりを見て「無理してでもあの時揃えといて良かったなー」などと他人事のように胸を撫で下ろしていたが、まさかこの状況下でカタログを収集するという熱意のある若者がいるとは…素直に感服した。

 そういった苦難の道に挑んでいる彼女が出したからこそ、「興味を持った若者がThe Good-Byeの音源に触れられるよう、CDでも配信でも気軽に聴けるようになってくれると嬉しいです」という要望は弥が上にも説得力を増した。会場も万雷の拍手で彼女の発言を称えたが、それは熱心なファンの積年の想いをも代弁していたからであろう。

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 当ブログでも言及した、プレミア価格の高額商品を懸命に買い集めている若いファンの存在。この方のトークには私も川原氏への質問を諦めざるを得ないほど胸を打たれたが、それはプロデューサー氏本人にとっても同じだったようだ。
 ファンとのダイレクトのコミュニケーションからニーズを拾い上げ、フットワークも軽く迅速に行動する…そこには私のような人間には想像も及ばない苦労がある事は間違いないが、こうして今回も再プレスを実現させてしまった。ご自身が語っておられた通り、良い意味で「普通の会社員プロデューサー」ではない。

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 既に記事でも触れた通り、再プレス盤の売れ行きは上々。既に再々プレスの話も出ているとの事。権利上の問題でサブスプリクション等での配信は最新作『Special ThanX』以外の楽曲は行えないとの事だが、個人的にはそれで良いと思う。アーティスト側の利益を考えるなら、やはりフィジカルが売れる事が最も健全な形だ。

 

Master and Padawan

 川原・曽我両氏のトークから、印象に残った箇所をピックアップして紹介する。

 

「曽我とは好み、方向性が同じだから厳しくした」
 「他のメンバーが曲を持ってくるだけで80点くらい与えるのに、自分にだけはハードル設定が高い」、という曾我氏のボヤキに対しての川原氏の回答。
 マッカートニー、ウィルソン直系のソング・ライティングのセンスを持つ両者。見ている方向が同じならば、もっと高いものを要求しても大丈夫だという信頼の現れだろう。
 例えば加賀氏とは好みの方向性も違うから、あまり自分の思うように修正してしまうと彼の個性を消してしまう、とも。確かに大らかなアメリカン・ロックを志向していたように思われる加賀氏の楽曲は、そこまでブリティッシュな色は感じなかった。
 何となく、ハリスンのインド色の濃い楽曲に対するマーティンの見解、といった2人のジョージの逸話を思い出すような内容である。
 川原・曾我のコンビは共通のOSを積んでいた。川原氏も曾我氏に指導する事により、自分も成長出来た、との談。この後の2部で川原氏が語った「The Good-Byeでの実験成果を自作にフィードバックした」という内容にも繋がる話だ。

 

「全員が曲を書き、バンドとして個性が出てきたのが3枚目(『All You Need is...グッバイに夢中!』)くらいから」
「スタジオ・ミュージシャンが最初から演奏すれば、一定のクオリティのクリアなサウンドで作ることが出来る。だがメンバー自身の演奏なら、アルバムごとに成長していく姿が楽しめる」
 アイドル、歌謡曲全盛の時代。J事務所所属のタレントがバンドとしてデビューする事の難しさを示す川原氏の発言。今でこそ同事務所のアイドルが自作曲を歌ったり、自らバンド演奏する事も珍しくないが、何せ当時は前例がないのだ。
 あくまで芸能界のシステムに乗った上で、一からバンドとしての個性を作り上げていく。その作業は、無責任な立場のリスナーからは想像し得ない困難が付きまとっていたのではないだろうか。
 スタジオ・ミュージシャンの話はさもありなん、と思った。集められたばかりのメンバーがバンドとして音を結束させるのは本当に難しいだろうし、The Beatlesですらデビュー・シングルはリンゴがドラムを叩いていないのだ(ただし「Love Me Do」のシングル・ヴァージョンはリンゴがドラムを担当しているややこしさ)。

 目先の結果を求めるのならば、手練れのミュージシャンに演奏を任せるのは自然な流れだろう。事実、バンドとしてのクオリティ向上が間に合わなかったからこそ、1stシングル「気まぐれ One Way Boy」タイトル曲のシングル・ヴァージョンのみ自分達では演奏していないという。
 それでも、そんなバラバラの状態でもカップリングの「Dance×3」はメンバー達に演奏させた川原氏の姿勢。4人を育てる、という確固たる意思が垣間見える。
 結局、2022年の今でもThe Good-Byeの楽曲を楽しめるのは彼ら自身の演奏が個性となって音に表れているからであり、それは他者の演奏ではそうはならなかった。これは断言出来る。

 

「J事務所は儲かっていたが、今ほどかっちりした経営ではなかった。お陰でThe Good-Byeは予算をかけることが出来た。アルバムの制作費は通常の倍くらい」
 今でこそメディアを掌握し、鉄壁の体制を誇る当該事務所だが、まだまだ今ほどのノウハウはなかったのだろう。1stからストリングス・セクションが入っていたり、オーケストラ・インスト作品が発売されていた(未CD化?)らしい事を疑問に思っていたが、そういう裏話があったのだ。
 再プレス盤が売れ、今でも新たに聴き始めるリスナーがいる。その音楽的強度は、こうした制作体制も一因だろう。

 

「『Fifth Dimention』はアーティスト宣言」
 サイケデリックな問題作で名盤の誉れも高い同作品だが、上記の話とも繋がるところがある。シングルを切らずに、資金と制作時間を潤沢に使ったアルバムを作ってしまう。“アイドル・バンド”という世間的な括りで彼らを捉えるなら、この事実は明らかに常軌を逸している。
 一応「僕色に染めて」が別ヴァージョンで後からカットされているが、それとて12インチシングルである。カップリングの「Another World」はプログレのような長々とした間奏があり、およそヒット・チャートを対象とした作品ではない。
 ポップなヒット曲でブレイクし、アイドル的な人気を獲得したバンドは、いつかこの通過儀礼を経なければならないのだろう。偽悪的に「ファン切り捨て」と呼ばれる事もある。
 The Beatles『Rubber Soul』『Revolver』やYMO『BGM』『Technodelic』がその代表例として思い浮かぶが、個人的にこの川原氏の発言で真っ先にイメージしたのが「ヘヴィメタル宣言」と共に生み出されたと聞くLazy『宇宙船地球号』の事だった。彼らはこの作品と共に解散してしまうが、The Good-Byeは次作『#6 Dream』でポップ・サイドに帰還する事となる。

 

「アイドルでもない、ロックバンドでもない、好きな事をやっているバンド。ぱっつぁん(加賀氏)と衛藤さんが加入していなければ、バンドとして続いていなかった。自分と義男だけならば、どこかのタイミングで演奏せずに踊っていたかもしれない」
 The Good-Byeの特異な立ち位置を物語る曾我氏の発言。元々J事務所の所属ではなく、ミュージシャンとして活動していた加賀・江藤両氏が曽我・野村両氏と出逢ったからこそ、活動の方向性が固まった。外部の血が入ったからこそ、歌謡界、アイドル界に止まらない立ち位置のバンドになったはずだ。
 特にポップ・ミュージックに興味のない人からすれば、ヒット・チャートで成績を残した曲だけが成功例であり、往々にしてそれ以外は失敗として切り捨てられてしまう。The Good-Byeが一般的な知名度を得られていない原因であろうが、それは彼らの楽曲のクオリティとは全くイコールではない。私のように、解散から15年経ってファンになるような者だっている。それどころか、今回の再プレスで初めて触れる若者も少なくないだろう。私には、その事実こそが重要に思える。
 勿論、リアルタイムでの活動中にメンバーとしても思うところはあったと思う。ふと思い出したのは、元Sallyの加藤喜一氏のブログ中にThe Good-Byeの名が登場した事だ。東京ディズニーランドでの年越しライヴのオファーをSallyが断り、代わりに入ったのがThe Good-Byeだった…と、当時の両バンドの苦境を物語るような文脈でそんな逸話が引用されていた。
 だが、The Good-Byeのメンバーは現在でもミュージシャンとして活動を続けている。それは、周囲から浮いた存在でありながらも真摯に音楽に取り組み、あくまで遊び心を忘れずに楽曲制作を続けた結果であろう。


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 余談だが、加賀氏と加藤氏は共にビートたけし氏のバックを務めたバンド・メイト(上記の加藤氏のブログによる情報)。それ以後も交流があり、2人でライヴも行っていたようだ。共に50~70年代のロック、特にThe Beatlesにリスペクトを捧げた音楽を作り、同年代に第一線で活動した戦友同士。こういった共演がもっともっと観たかった。

 

 

 次回は、私が前回のリベンジを果たすべく果敢に質問へと挑んだ2部の内容をお伝えする。私の毒にも薬にもならぬ個人的な音楽体験を取り混ぜて書くつもりなので、どうぞご注意されたし。