(Revenge of the) United Minds

Talkin' 'bout Music, Football(JEF United Chiba) and More.

So I must be on my way, and face another day

 久し振りに会った友人から、過去に人生の中ですれ違ったことのある人の話を聞いた。曰く、地域の仕事で最近よく顔を合わせる女性が、私の中学時代の部活の先輩とのこと。

 名前を聞いても全く思い当たる節がなく、あれだけ印象的だった部活動の記憶も遠い彼方へと追いやられてしまったのか、と諦めの気持ちと共に話を聞いていたが、彼女自身がインターネット上に公開している写真を見る事により疑念は雲散霧消した。確かに見覚えのある顔である。

 それもそのはず、彼女は既に結婚により姓を変えていたのであった。当然、名前を聞いただけでは誰なのかわかるはずもない。私の1年上という事は既にそれなりの年齢であるという事実を意味しているが、当時の面影を残しており、とてもチャーミングな女性という印象だった。良い年齢の重ね方をしておられるのであろう。

 

 とはいえ、彼女の事はその瞬間まで忘れていたのも事実だ。当然ながら、私の事も彼女は全く覚えていないだろう。当時の吹奏楽部において、私の担当パートはテナー・サックス、彼女はホルン。木管金管という違いは全体合奏練習時しか顔を合わせる機会がないことを意味している。接点自体が殆どなく、恐らく会話すらしたことがないのではないかと思われる。

 当時の私は今ほどひねくれた人間ではなく、同級生とは男女関係なくオープンに会話することのできるパーソナリティーの持ち主だった。

 だが、こと部活となると話は別である。部員の80%を女子生徒が占める吹奏楽部では圧倒的に男子の立場は弱く、対抗するには多勢に無勢である。それでなくとも、中学生など女子の方が圧倒的に大人びているのだから。その上、学年が上の先輩ともなれば猶更言葉を交わすことは困難だった。

 更に、私の2年時において木管パートの男子は私ただ1人。隅っこで縮こまっているしか選択肢がないのである。女子たちの注文に対し、何か言い返せば10倍のパワーでやり込められてしまう。お手上げ状態とはこのことだ。

 勿論、金管パートには女子と真っ向から対立する者も複数おり、それが我が吹奏楽部における男子部員の立場を一層危ういものにしていた。彼らは怠慢に見えてしまう練習態度や、顧問の教師の指揮能力に不満を露わにするという反抗的な態度を取っていた。その件で、何度も部内ミーティングが開かれたことを思い出す。

 私は木管パートの女子が怖いので、一応は真面目に練習に取り組むふりをしていたが、「男子は全員不真面目!」という彼女達のレッテル張りには抗えない。勝手に彼らの仲間としてカウントされていたのは大いに不本意であったが、「でも、西園君だけは真面目に練習してるけど!」とわざわざ私に言及する義理もなかったのだろう。それほど、部内における私の存在感は薄かった。

 そういった不満分子は、2年の文化祭終了と共に退部してしまった記憶がある。実は彼らは私とバンドを組んでいたり、後に組んだりする仲だったのだが、当時のことはあまり語ってくれなかった。

 

 閑話休題。そういったインパクトすら残せず、OBとして卒業後に練習に顔を出すといった行動をするわけもない私が、当然前述の女性の記憶に残っているはずがない。

 彼女について調べてみると、介護の資格を取って実務は勿論、啓蒙活動にも積極的に参加しているらしい。かなりステディに人生を歩んでこられたのであろう。尊敬する。

 個人的には、かつて我が母が出席していたようなフォーラムに、同年代の人が登壇していることに感慨があった。つまり、私もそういう年齢なのだ。

 思えば、私と過去に関わった人は皆何らかの実績を残している。海外での美術展開催、超有名ゲーム作品のプロデュース、パリでの出店、音響会社の商品開発チーフ、アニメ系音楽の有名サークル運営、そして今回の彼女。要は、私が今までの人生の中であまりに何も結果を出せていないだけなのだが。

 改めて、今まで生きてきたことを無駄にしない程度の実績を残したい。そう考える良い機会であった。

 

 それにしても、部活動とは不思議なものだ。あれだけ一つの目標に対し一致団結して取り組んでいたのに、ほんの数年間で散り散りになってしまう。そして、その後の人生を把握している部員の方が稀だ。

 例えば、今まで組んできたバンドなら現在も付き合いのあるメンバーが多いのに、同じ音楽を主題とした活動なのに部活の方はそうもいかない。こうして、誰かから話を聞いてようやく思い出すような人もいる。

 バンドと違って人数が多い上、長くとも3年間しか活動を共にしないのだから当たり前なのだが、こうして立派に頑張っている部活動仲間の話を聞かされると妙に感慨に耽ってしまう。

 当時の演奏風景を捉えた写真を見直したが、名前すら忘れてしまった人が何人かいる。あれから長い年月が経ち、それぞれ様々な人生を送られているのだろう。3年の途中でドロップアウトしてしまった私だが、せめて彼・彼女達と再会した時に胸を張って話すことの出来るような実績を残しておきたいものだ。

Stories from the Cutting Edge of Produced Music

 日本のポップ・ミュージックに深く関わってきたプロデューサー、川原伸司氏が著書を発表。

 個人的な事情で遅れましたが、私も特典CD付きのものを先月購入。6月の川原氏のイベント開催時には既に発売が決定していたようですが、特にご本人からは告知等はなく、後からTwitterで知りました。
 今回の著書の中でも繰り返し書かれていた「裏方に徹し」たいというマインド故の奥ゆかしさでしょうか。

ovo.kyodo.co.jp 氏の業績を考えれば、今までこの手の本やインタビュー等が公開されなかったのが不思議なくらいですが、伝え聞いた話では業界内でも今回の本の刊行は話題を呼んでいるようです。

 

 個人的には、川原伸司という人の名前を認識したのは大滝詠一関連のライナーです。ナイアガラ・レーベルのソニー移籍以降の記述中、度々登場する「ビクターの川原」「友人の川原君」といった名を頻繁に目にしており、只者でない事は理解していました。

 その後、The Good-Byeの再発プロジェクトでリリースされたDVD『Video! The Good-Bye!!!』のレコーディング・シーンにて、「白夜のRevolution」のシンコペーションでのカッティングを曾我氏に指示するレコーディング・ブースの人物がまさにその人だと認識した際、自分の中で様々な音楽が1つに繋がった感覚がありました。

 

 そんな私の中の些末な感覚だけの話ではなく、実際に様々な日本の音楽やその関係者を繋げた人。それがこの本を読んで一番感じた事です。
 「ビートルズ主義」を志として掲げ、The Beatlesの4人ならどう行動するか、ジョージ・マーティンならどのようなプロデュースを行うか。その絶対的な指針を胸に、多岐に渡る大きな仕事を成し遂げてきた川原氏。

 

 業界の末席に加わったかすら怪しい私が川原氏の仕事ぶりをどうこう言うのも大変烏滸がましいのですが、根本には自身がソング・ライターであり、何よりも音楽好きであるというスタンスがそのフットワークの軽さに表れているように感じました。音楽の世界ではビクターという体制側に属しながらも、常にミュージシャンの立場から仕事を構築していった。The Beatlesを初めて聴いた時の青い衝動を常に心の中に持ち続けていた。そんな印象です。

 The Good-Byeとの逸話を引用するまでもなく、プロデュースやディレクションを受けるミュージシャンからすれば、同じ目線に立ってくれる兄貴分といった感覚だったのではないでしょうか。

 

 プロデューサーやソング・ライターとしても世に知られる仕事がいくつもあるのに、本当に仕事の幅が広すぎて、一読しただけの現在ではまだしっかり理解出来ているとは言えない状況です。
 ビクターでディレクター業をしながら、大滝詠一松本隆筒美京平井上陽水といったレジェンド達の仕事をコーディネートし、適切なサポートをする…裏方としての八面六臂の活躍ぶりがあまりにも凄すぎて、安易なコメントはしかねるところ。
 他にも小室哲哉から庵野秀明T-Square竹達彩奈まで(直接関わっているかどうかは除いても)意外な名前がどんどん出てくる。仕事の幅広さを思い知らされる本でした。

 

 川原氏が中森明菜のシングルに推したという小室哲哉作曲の「愛撫」「Norma Jean」。自分にとって、TM Network時代の小室氏は崇拝の対象でした。ここでまた川原ワークの1つとして自分の愛好する音楽が繋がるのは、感慨深いものがあります。
 当時、TM Network (TMN) はリリースが途絶えており、私を含めたファンの間には不穏な空気が漂っていた時代。結果としてそれは活動の“終了”として的中してしまうわけですが、TKブーム前夜の小室哲哉という才能の開花を既に川原氏は予言していた事になります。

 

 あとは何といっても、文中に何度も登場するナイアガラ総帥の逸話の数々が見逃せません。川原氏ご本人と直接お話しした際に「俺は一緒にやってたんだから」と仰っていたように、特別大滝氏だけと関係が深かったわけではないのでしょうが、それでも個人的には分かち難い絆を感じてしまいました。
 作中で「当時は大滝さんと二人でユニットを組んでいるような仲良しだったから、“レノン=マッカートニー”もたぶんこういうやりとりがスタジオであったんだろうな、と思いました」という一文がありますが、いかに2人が密に関わり、大滝氏に川原氏がインスピレーションを与えていたかがよくわかる文章です。
 大滝氏が自身で振り返った自らのヒストリーに、違う視点から真実を解き明かしてくれるこの本。ナイアガラーも必読の書である事は間違いありません。

 

 森進一「冬のリヴィエラ」の制作過程において、「最初は森進一でサッチモをやりたかったが、断念してああいう形になった」というのが大滝氏の談。当然、これもファンにとっては基礎知識の1つ。その逸話もこの本には登場しますが、「でも大滝さんにジャズのセンスはないから、それはハッタリ」とはっきり書いてしまう面白さ。「お前、余計なこと書くなよ」といつもの調子でボヤく声が聞こえてくるようです。

 「そうしてできたのが、いわば“ビートルズジョージ・マーティンの系譜で大滝さんが作った曲”だったんですよ」という種明かしも新鮮でした。この方向性が、『Each Time』のリヴァプールサウンドに繋がるのかもしれません。

 大滝氏は晩年、ほぼ唯一の活動だったラジオへの出演回数も減り、特に2011年3月11日以降は常にどこか苛立ちを抱えているように感じました。ラジオでもポッドキャストでもイベントでも紙(誌)面上でもいいから、川原氏とのトークが聞きたかったと今更ながら思います。

 

 文章はインタビューを構成したものなので、基本的には口語体で非常に読みやすい。川原氏の仕事の幅広さや日本の音楽界に与えた影響の大きさ、次々に登場する重要人物達への言及で一気に読むことが出来ました。
 The Good-Byeをきっかけにイベントでお話を聞く機会に恵まれた私ですが、氏の功績をこうしてわかりやすく把握することが出来て良かったと思います。

My Name is Jacques (𣝣)

 先月に源氏関連の史跡を訪れた際、私好みのマニアックな展覧会が行われている事を知ったのだが、惜しくも体調不良で断念。
 ブログ記事になりそうな近辺の史跡を探していたところ、三鷹森鴎外の墓地がある事を知り、墓参する事にした。

 

 最近この駅でもたまに降車するが、実際に街を歩いたのは10年程度前まで遡らなければならない。

 画家の友人L(仮名)が彼の地で展覧会を行う事となり、私は最も親しかった相棒のS(仮名)と訪れたのであった。だが、SはLのアート仲間である女性彫刻家に興味津々。絵や彫刻そっちのけで「L君、あの人と付き合っちゃえばいいのにね」という話題に終始し、私を内心呆れさせたのであった。
 異性、そして恋愛が話題の殆どを占めていた当時のSだが、そういった女子力の高い(言うまでもないが、彼は私と同い年の男性である)会話はとても私には真似出来ないものだ。そうやって彼は私など比較にならないくらいのコミュニケーション能力で交遊関係を広げていたのであり、ウイルス禍関係なく自主隔離生活を続ける私がどうこう評論する資格はない。それも彼の魅力なのである。とはいえ、当時はかなり唖然としながら無理矢理話を合わせていたのも事実だが….。
 今のところ森鴎外とは一切関係のない話をしているが、駅前に立った際にこの記憶が甦ってしまった。

 森鴎外は、卒論のテーマの50%を占める重要な作家だった。純文学の類いに殆ど造詣がなかった私に、ゼミの教授が「そんなに日本史が好きなら、歴史小説をテーマにすればいい。それなら森鴎外を題材に加えなさい」と、苦肉の策として提案してくれたものだ。

 当然、私はこの時まで意識して鴎外の作品を読んだことがなかった。日本文学評論の大家であった教授からは「君はどうして日本文学科に入ったんだい?」「僕のゼミには、自分の好きな作家と心中したいとまで思い詰めている人ばかりなんだよ?」とかなり厳しい指摘を受けたが、今考えればそれも当然だと思う。
 「自分の文章能力を磨きたくて入りました」と正直に答えたものの、日本文学を学ぶという事はそういう目的では行わないものなのだ。これに関してもかなり辛辣な意見をもらったが、それも今となっては反論の予知などない。
 今考えれば、こういった教授とのやり取りは貴重なものだったと痛感している。遅ればせながら、自分が文学よりも史学が好きなのだと気付いたのはこの時であった。あまりに遅すぎるが、気付けないまま生きていくよりもずっと良い。

 

 鴎外とは、そういったほろ苦くも貴重な体験をさせてくれた重要な作家だった、そう考えれば、墓参は遅すぎたくらいだ。

 現在、鴎外はこの禅林寺に眠っている。セレモニーホールとしての利用も多いようで、駐車場や斎場の案内が至る所に置いてあった。

 

 テーマが決まってからは、毎日浴びるように鴎外を中心に歴史小説を読み漁った。引用のために明確に見付けなければならないポイントが存在し、タイムリミットもあるので必死だった。

 読みながら寝てしまう事もあり、今は亡き実家の祖父に起こされたのを昨日の事のように思い出す。

 

 しっかり墓所の案内もある。

 だが、ちゃんと場所を示している事に気付いたのは、今こうして写真を参照してからだ。来訪時には完全にチェックを怠っており、この後墓所内をさまよう事となる。

 

 それほど注意力散漫だったのは、時間に限りがあったからだ。

 隣駅に自転車を停めており、長い時間をここで過ごすわけにはいかなかった。この禅林寺も駅から少し距離があるので、帰りの時間も考えればゆっくり滞在するわけにはいかないのだ。

 

 Google Mapの写真のみを便りに、位置関係を推測しながらやっと辿り着いた。シンプルに「森林太郎」とのみ表記された墓石には、俗世の栄誉を全て捨て、一個人として眠りたいという意思を感じる。

 雑草が繁っており、少し物悲しさも感じた。

 

 墓前には、雨露に晒された岩波書店の文庫本が供えられていた。

 帰って調べてみると、木下杢太郎のデビュー作『南蛮寺門前 和泉屋染物店』であった。鴎外同様に医学の道を志した事から、彼に助言を求め、その心情を深く理解し、やがて鴎外研究の第一人者としても知られるようになった人物。
 あえて鴎外本人の作品でなく、そんな杢太郎の作品を供えるとは気が利いているし、粋だなと思った。わかっているファンの仕業だろう。これも何かのきっかけだと思い、私もこの作品を読んでみようと思った。

 

 ちなみに、鴎外の墓の向かいには太宰のものもあったらしい。

 先ほどの案内板を参照すれば苦もなく辿り着けたわけだが、それに気付けないほど気が急いていたので今回は発見出来ずに帰路に着いた。鴎外を敬愛していた太宰のたっての希望で、この位置で眠っているらしい。いずれまた、この地を訪れることもあるだろう。
 ちなみに、鴎外の墓は移転してきたためか、特にこれといってこの寺ではイベントを行っていないらしい。太宰を偲ぶものは彼の誕生日に行われているらしいが、これは仕方ないないところか。
 余談だが、我が文学の師である前述の教授は太宰治を嫌悪しており、「太宰で卒論が書きたいならよそのゼミへ行ってくれ」とまで言っていた。抽象的な文章に終始したハルキストの生徒の卒論発表もかなり厳しく意図を追及しており、文学的志向は一貫しているように思える。

 

 鴎外の遺言が、石碑として置かれている。

 口述筆記で綴られた文章は、浮き世のしがらみから解放されたような、余計な装飾のない清々しいものだ。

 晩年の鴎外は白飯に饅頭を半分割って乗せ、その上から茶をかけた「饅頭茶漬け」をこよなく愛していたらしい。とあるドラマでも鴎外役の伊武雅刀が実際に食していたが、個人的にはあまり食べたいとは思えない料理である…。

 

 卒論は、『阿倍一族』から「殉死」というテーマを見出だし、他作品との共通点を挙げながら一気に書き上げる事が出来た。

 教授やOBが容赦ない指摘をしてくるゼミ発表に、毎回戦々恐々としていた私。しかもグループで発表する普段の内容と違い、卒論発表は1人で臨まなくてはならない。恐らく今までの人生の中でもトップクラスに緊張したイベントであったが、普段は超辛口なOBが「良いね、面白そうじゃん。あんまりこういう内容見た事ないよ。もうこの時点でまとまってるし、何も付け加える事がないね」と褒めてくれたのは、ホッとするやら、どこか拍子抜けするやらであった。
 こういった負荷のかかる体験も、当然人生には必要だと思う。そういった貴重な経験と、今でも鮮明に思い出す事の出来る記憶を得るきっかけを作ってくれた森鴎外には、改めて感謝したい。

 奇しくも、今年は鴎外の生誕160年、かつ没後100年という区切りの年。当然、不勉強な私は全く知らずに今回の墓参を行った。きっと、これも偶然ではないはずだ。

泣く子も黙る ゲンジ大放送

 多忙ゆえになかなかブログで取り上げるような出来事もなく、能動的にアクションを起こさねば記事にするようなトピックが何もありません。

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 江古田を訪れた際、太田道灌の史跡を訪れたのもそういった事情から。結果的にこの時は2つも記事を書く事が出来、好都合でした。
 今回も出先で面白そうな史跡を検索し、目に留まった2ヶ所を紹介します。

 

 空海ほどではないが、各地にその伝説を残している源頼朝。日本初の武家政権の棟梁であり、一度は宿敵に敗北し逃亡生活を強いられた点が日本人の琴線に触れるのでしょうか。少なくとも実際に訪れた事のある南関東の1都2県は、例え眉唾物の伝承でも史跡を量産出来そうな環境。

 タイムリーな話題でもあり、鎌倉や神奈川県ではない場所で鎌倉幕府関連の史跡を探してみるのが私らしいと思っておりました。今回、お誂え向きの史跡を近場で見つける事が出来たわけです。

 

 

頼朝公御手植の松

 

 最初は、以前紹介した事もある井草八幡宮

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 この記事を書いた際には気付かず、あれから何度か社の前を通過しているものの、詳しい事は全く知りませんでした。

 

 ここに、頼朝が自ら植えたという松の木があります。

 奥州藤原氏征伐に向かう際、戦勝祈願のためにこの井草八幡宮へと立ち寄った頼朝。その結果、見事奥州平定を成し遂げた彼は、それに報いるために雌雄2本の松を自らの手で植え、奉献したというもの。

 

 以上は境内の説明看板からの引用ですが、「征伐」だの「平定」だの、物は言いようだなという感が否めません。しかしこれも戦勝した側からの視点なのだから、こう書かざるを得ないのですが。

 以前もブログで書きましたが、神仏への対応は今とは全く比較にならない程重要視されていた時代。

blog.goo.ne.jp

 畏れ多くも源氏の棟梁が、自ら手を汚して松を植え、八幡大神に感謝を捧げる…その行為には大きな意味があったはず。これまた上記記事でも触れましたが、その辺は頼朝もそつなくケアしていた印象です。
 敵方の平家は勿論、同じ源氏の一族どころか血を分けた兄弟すら全て討ち果たし、自らの政権を安定させようと腐心したわけですから、それくらいするのは当然でしょうが。

 

 当初植えられたのは「2本の松」との事でしたが、雌松(赤松)は明治時代に枯れ、雄松(黒松)も昭和時代に強風で真っ二つに割けた後朽ち果てた模様。

 そのような事情から、現在の松は二代目であり、頼朝が直接植えたものではないとの事。

 鶴岡八幡宮の大銀杏といい、樹木が歴史の証人として往時のまま生き続けるというのもなかなか難しい。
 初代の黒松倒壊は昭和47年1月の出来事だったようですが、「ミスター井草」こと田中裕二(昭和40年生まれ)の記憶の中には残っているのでしょうか? 彼の生地はここから少し離れた西武新宿線都立家政駅の近辺らしいので、きっと「覚えてないよ、そんなの」と目を黒いビー玉のようにして言うだけでしょうが。

 


 さらにこの近辺に、頼朝関連の史跡がもう1ヶ所存在する模様。

 

 

遅野井の滝

 

 この湧水地は、何とその頼朝自身が開いたとの事。ここは、その湧き出し口を滝の形で復元したもの。よって、かなり創作が加わっているという事になります。

 前述の井草八幡宮参拝後、見事奥州で藤原氏を討ち果たした頼朝軍。だがこの地に凱旋した際は折悪く干ばつの最中。慣れぬ土地での合戦で疲れ果てた一行に、渇水という更なる追い討ちが襲いかかってきたらしい。

 

 以下は、説明看板よりの引用。

 頼朝は弁財天に祈り、自ら弓で地面を7か所掘った。軍勢は乾きのあまり水が湧き出るのが遅い、遅の井と言った。
 その時、忽然として7か所に水が湧きだし、軍勢は乾きを癒した。

 よくある伝説の類いですが、こういった逸話が残されている事実こそが頼朝の神格性を物語っているように思います。こんなに都合良く話が進むわけもなく、お話の一つとして記憶に留めておけば十分だと思いますが、「水が湧き出るのが遅い」のくだりは妙にリアリティがありますね。一片の真実がここに含まれているのかもしれません。
 対話の機会を与えてもらえずに追われた義経や、騙し討ちされて滅ぼされた藤原氏の怒りが干ばつに繋がったのではないか? と意地悪な見方もしてしまいますが、だからこそ頼朝は江ノ島弁財天をこの地に歓請して善福寺弁財天を創建したのだろう、という話にも繋がってきます。
 さすが、攻め滅ぼした者達へのケアは欠かさないマメな征夷大将軍・頼朝。ただしこの場合のケアは、自らに災厄が降りかかるのを防ぐという意味ですが。

 

 しかし、この湧水のある善福寺公園太田道灌絡みで名前は何度も目にしていましたが、思った以上に池も広く、本格的な自然公園で驚きました。

 まさかこんな場所にこれほどの自然があるとは…という驚きがあります。石神井公園に匹敵するのではないでしょうか。

 都心にも近く、緑多い土地。杉並区や武蔵野市の人気がよくわかります。

 

 善福寺池(上の池)と遅の井の滝(湧水地)の水が、この歩道を境にはっきりと色が違うのが面白い。

 余裕があればすぐ近くにあるカフェに寄り、頼朝がこの地でどのような言葉を口にしていたかに思いを馳せたかったところですが…。

 暑さとタイムリミットという2つの要素に追いたてられ、私も先を急ぐ事となります。

Egota Search

 先々週に訪れた、太田道灌の古戦場跡。

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 この日は江古田に用事があり、あくまでそのおまけとしての来訪でした。

 

 しかし、ナビが示したのは西武新宿線江古田駅からはかなり離れた場所。いざ着いてみれば史跡の管理自治体は練馬区ではなく中野区。この近辺の地名も「えこだ」「えごた」と読むようで、辺りの地理に明るくない者としてはちんぷんかんぷんの状態。
 帰ってからWikipediaに助けを求めると、こんな記述がありました。

西武池袋線には江古田駅が存在し、駅周辺一帯も江古田と呼ばれることが多い。現在、江古田駅練馬区旭丘にあり中野区江古田からは離れている。これは、練馬区旭丘が1960年昭和35年)の町名変更まで古田町であったことに由来する。もともと、江戸時代多摩郡江古田村の新田として開発されたものである

ja.wikipedia.org

 さすがにこれは調べなければわからない…千葉県の過疎地域出身者の付け焼き刃の知識では太刀打ち出来ません。
 確かなのは、「江古田」という地名の発祥にも太田道灌が関わっているらしい事。彼の足跡を巡る旅を行うのなら、避けては通れない土地だったという事です。

 

 この日は自転車移動であり、このような未知の土地でも移動にさほど苦労を感じずに済みました。いつものように電車と徒歩を駆使した訪問では、こうスムーズには運ばなかったと思われます。

 仮に江古田駅から歩いた場合、マップ通りで2kmの道のり。大した距離ではありませんが、勝手のわからない土地や暑さという減点ポイントを考えれば、往復がそれほど楽ではなかった事は容易に想像出来ます。

 

 古戦場跡に向かう途中に見つけた施設。

 私が上京後初めて行ったアルバイトの同僚に、半年休み無しで働いて残りの半年を世界各国の旅に費やすというロマン溢れる人がいました。彼が訪れたばかりのチベットの風景の素晴らしさを語っても他の仲間には暖簾に腕押しの中、『Seven Years in Tibet』を観ていた私だけが話題に付いていく事が出来、しばし心を通わせ合った事があります。
 そんな昔の記憶を思い出させるこの施設。もう名前も忘れてしまいましたが、彼は今でも旅を続けているのでしょうか。

 

 この日は数日前からの天気予報が外れ、15時過ぎから雨の予想。とにかく早く用事を済ませなければならず、Google Mapが割り出した最短距離で移動しましたが、大通りを通るので歩道が狭く、交通量も非常に多い。本来なら人気の少ない裏道を通りながらじっくりサイクリングを味わいたかったのですが、天気には勝てません。神経を尖らせながら、南とか往復してきました。
 それでも、見知らぬ土地を自転車で訪れるというのは楽しいものです。「田圃と急な坂道しか知らなかった田舎者が、今東京を自転車で走ってるよ!」と妙な感激に打ち震えていました。普段は、もっと都心を走行しているのにも関わらず。

 

 その田園風景を走りながら高校に通っていた時代、訪れた事のある江古田駅

 よくある「大学のある街の私鉄の駅」そのものの佇まいです。さすがに前回訪れたのがあまりに昔の事なので、もはやどんな外観だったのかすら覚えていません。

 

 こちらは、明らかに変化している事がわかりましたが。

 私の知っている校舎の面影は、もはや全く存在しませんでした。

 

 帰りに立ち寄った駅の近くの古本店や、商店街の入り口にあった喫茶店などを覚えているのですが、それらしき店は見つかりませんでした。もしかすると、喫茶店の方は爆笑問題の話を聞いて勝手に想像していただけなのかもしれません。

 この日の昼食にと狙いを定めていた蕎麦店に入るも、ネット上の口コミに記されていたトリッキーなメニューは期間外。目当てが外れ、少々がっくりしながら頼んだカレー蕎麦は、想像以上にガッツのある量でした。例えば10年前だったら余裕で平らげていたのでしょうが、あれからの年月で老いた分、胃袋はかなりギリギリ…しかし非常においしかったので、いずれ再訪します。

You say ”Good-bye”, but you may mean "Hello"

 既にイベント当日から1ヶ月以上が経過しているが、予定通りイベント後半戦である2部の様子をレポートする。

 基本的には川原・曾我両氏の発言に感じた事を書いていくスタイルは変わらないが、話の内容がソング・ライティングに踏み込んだものだった事もあり、どうしても私的な音楽体験と絡めて書かざるを得ない。そういった要素が読まれる方からすればノイズになるかもしれないので、そういった方は前回の記事で書いた1部の様子だけを参照して頂きたい。

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 これだけでも、十分イベントの様子は伝わると思う。

 

 

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